時空をまたぐゾウ文化

2021-11-26 16:10:25

王丹丹=文

雲南省シーサンパンナ(西双版納)・ダイ(傣)族自治州の熱帯雨林から「旅」に出たアジアゾウの群れが今年、世界のニュースメディアの主役になった。酒かすを食べて酔い、水浴びをし、かわいらしく眠り……。3カ月余りにわたる実況を通じ、さまざまなエピソードが人々の心をつかんだ。ゾウの群れが元の生息地に戻ったのを機に、それまでの経緯や中国のゾウ関連の文化などを紹介する。

 

ゾウの群れの移動ルート

 

人々に見守られた1300㌔の旅

このゾウの群れは昨年3月に北上を始めた。15頭がシーサンパンナを出発し、のんびりと食べながら歩き、同年7月に普洱市に着いて半年余りとどまった。この間に2頭の子ゾウが生まれた。

今年4月、群れは一路北上を始め、玉渓市を経て昆明に到着した。本来ならアジアゾウは2カ月間の行動範囲が30㌔を超えないが、この区間の行程は500㌔を超え、内外のアジアゾウ研究史上で最長記録となった。これはほぼ東京から大阪までの距離に相当する。

 

大人のゾウに助けられて坂を上る子ゾウ(新華社)

衝突を避けて人とゾウの安全を保証するため、雲南省の現地政府は数百人のチームを派遣し、24時間態勢で群れを見守った。同時に、専門の給餌スタッフが一部の区間にトウモロコシやニンジン、バナナなどの食料を置き、群れに与えた。必要な場合には沿道を封鎖し、行動中のゾウを保護した。

8月上旬、群れは元江を越えて計1300㌔余りの旅を終え、普洱市墨江ハニ(哈尼)族自治県内に入り、従来の生息域に戻った。

今回の北上の原因についてはさまざまな意見がある。近年、シーサンパンナで野生のゾウが増えたのに伴い、この群れは生息空間を新たに開拓する必要があったという見方がある。また、保護区の大樹が人為的にますます成長し、ゾウの食用に適した植物が樹下で育ちにくくなったため、群れが餌を求めて移動することになったという見方もある。どのような原因かはともかく、生息域を離れたゾウの群れは世界の注目を集めた。

 

病気で群れを離れた幼いゾウにミルクを与える救助スタッフ(新華社)

 

かつては北方に生息

ゾウの群れの移動は人々に温かく見守られた。河南省の観光地「豫西大峡谷」では、食糧や果物、野菜が展望台に並べられ、「ひたすら北へ、古里河南」というキャッチフレーズが書かれた。「古里河南」とはどういう意味なのか? 熱帯に生息するゾウが中国北方の河南省と関係があるのか?

河南省の略称に使われる「豫」は象形文字で、漢字の「予」と「象」を組み合わせており、本来は比較的大きなゾウを意味する。「豫」はまた、人がゾウを引っ張るという意味も含む。古代中国は九つの州に分けられ、河南省の大部分はこのうちの豫州に属していた。そのため「豫」は河南省の略称になった。豫州の名は地元にゾウがいたことと関係があるだろうと一部の専門家は指摘する。

河南省の鄭州や安陽などの考古学調査では、殷代のゾウの骨や象牙彫刻、ゾウをかたどった工芸品が大量に発掘された。また殷墟で見つかった甲骨文字では、ゾウの捕獲について繰り返し触れられており、最も多い場合でなんと250頭を捕獲したと記されている。河南省がかつてゾウの群れの生息地だったことを殷墟の発掘成果ははっきりと証明している。

 

熟睡するかわいらしいゾウにも似た甲骨文字の「象」の書き方(左)。甲骨文字は3600年余り前のもので、河南省安陽市の殷墟で発見された。甲骨文字の記載によると、当時すでにゾウの狩猟や訓練、ゾウを使った祭事などがあった

研究が絶えず深まるにつれ、より多くのゾウの痕跡が知られるようになった。甘粛省では300万年前のコウガゾウの骨格が見つかった。河北省の泥河湾旧石器時代遺跡では200万年前のゾウの足跡が見つかった。山東省では農民が約20万年前のゾウの化石を掘り出した。四川省の三星堆遺跡と金沙遺跡では象牙数百本が出土した。歴史の大きな流れを見渡すと、ゾウの痕跡は中国各地に及ぶ。

現在では次のように推論されている。4000年余り前、中国北方の蒸し暑い環境は亜熱帯・熱帯地方に相当し、大部分の地域でゾウが生息していた。気候変動や戦乱、森林破壊に伴い、ゾウの生息地は絶えず減少し、ゾウは次第に南への移動を余儀なくされた。唐代にはもう長江以南に退き、宋代に南嶺山脈(湖南・江西と広東・広西を分ける山脈)を越えた。今では野生のアジアゾウはシーサンパンナや普洱市、臨滄市などの保護区で見られる。

野生のアジアゾウを保護するため、中国は多くの効果的な措置を取った。例えば、シーサンパンナ国家級自然保護区を設置し、適切な生息環境をつくり出した。08年にはシーサンパンナにアジアゾウ繁殖・救助センターを設立し、これまでに野生のアジアゾウを20頭余り救い、子ゾウを9頭育てた。目下、中国のアジアゾウの個体群は着実に拡大し、1980年代の約150頭から約300頭にまで増加している。

 

野生のゾウは飼い慣らされた後、マスコットになった。殷代の青銅器のデザインにはゾウが使われている

 

北京や昆明では地名にも

元朝の頃からゾウは一部の東南アジアの国・地域が中国に献上する貢物になり、「貢象」と呼ばれた。雲南省昆明や北京にはゾウと関連する地名も生まれた。

昆明の象眼街は元・明・清の時代に雲南府署の象房(ゾウの飼育地)があった場所だ。史料の記載によると、700年余り前、ミャンマーやタイ、ベトナム、ラオスなどの国や雲南省のダイ族指導者はしばしば皇帝にゾウを献上した。北京へ向かう前に貢象が一時的にとどまったのが昆明の象眼街だ。

旧暦の毎年6月6日、ゾウ使いは昆明の盤龍江でゾウに水浴びをさせていた。この日になると、見物人が象眼街の両側に詰め掛け、飾り立てられたゾウの群れが川辺へ向かうのを見送った。高官や高貴な人々は事前に川辺の小さな建物を借り、ゆったりと見下ろした。

ゾウは川に入るとわんぱくな子どものようになり、互いに鼻で水をかけ合った。見物人が銅銭を投げると、利口なゾウは川底から鼻で吸い上げてゾウ使いに渡した。また、ゾウ使いはゾウに鼻を振り回させたり、ラッパのように長く鳴かせたりした。こうした情景はとてもにぎやかだった。水浴び後、ゾウは北京への長い旅に出た。

かつて北京にあった象来街は貢象が必ず通過する場所だった。道中では見物人が駆け回り、「ゾウが来た!」と知らせ合った。このため「象来街」の名が付いた。貢象は北京到着後、主に皇室のさまざまな式典に参加し、美しい装飾を身に着けて「儀仗ゾウ」として使われた。

昆明の象眼街は今もあるが、北京の象来街はすでになくなっている。

 

昨年8月12日、シーサンパンナの観光地「野生ゾウの谷」で、「世界ゾウの日」に関連した果物・野菜の盛宴を楽しむゾウ(新華社)

皇帝も好んだ吉祥のシンボル

中国語で「象(シアン)」と同じ発音を持つ「祥」は縁起の良さや幸運を表す。とても力持ちでおとなしいゾウは中国の伝統文化の中で、吉祥と平和、あふれる力の象徴という素晴らしい意味を与えられている。中国の昔の人々は国にゾウがいれば天下太平で、家にゾウがいれば縁起が良く平穏無事だと考えた。

明・清の皇帝はゾウをモチーフにした「太平有象」の器物を特に好んだ。人々は発音のもじりや象徴化などの手法を用い、図画や彫刻、器物などの形で「太平有象」を表現し、天下太平や五穀豊穣の意味を込めた。

雲南省のダイ族は恵まれた気候、平和と安寧をもたらす吉祥の霊獣としてゾウをいっそう尊ぶ。異なる姿のゾウは異なる寓意を持つ。例えば、ゾウの鼻が高く上がっていれば賓客の出迎えを意味し、自然に垂れていれば調和を意味し、内側に巻いていれば蓄財を意味する。

現在でもゾウのさまざまなイメージは暮らしの中にしばしば登場し、吉祥と平安、健康に対する人々の願いを託されている。

 

吉祥を表すゾウの彫刻・塑像の周囲で水かけ祭りを楽しむダイ族の人々(千図)

関連文章