希望もたらす中日間の友情 時空超える魯迅『藤野先生』
王衆一=文・写真提供
中国近代文学の父・魯迅の生誕140周年を記念し、中国駐新潟総領事館は10月30日、魯迅と恩師・藤野厳九郎をテーマとする中日オンライン交流会を開催した。人民中国雑誌社は後援団体として加わり、筆者はパネリストとして招待を受けて次のような発言を行った。
異彩を放った寛容と善意
魯迅の『藤野先生』を40年余り前に中学の授業で読んだ。印象深かったが、決して深く理解できたわけではなかった。何年か後、人民中国雑誌社で中日間の異文化交流事業に携わるようになり、魯迅の中国・世界認識の原点といえる経験やこの作品の歴史的意義と現実的意義をようやくいっそう深く認識するようになった。
十数年前、中日関係が困難に陥ったとき、上海にいた日本の友人がカレンダーを贈ってくれた。そこには魯迅と藤野のイラストが描かれていた。なるほど「惜別と握手」というテーマは両国の有識者の心にずっとつきまとっていたのかと気付かされた。そこで、この作品の歴史的意義と現実的意義を考え始めた。
日本のカレンダーに描かれた魯迅と藤野厳九郎
1904年、周樹人という留学生が仙台医学専門学校に入学した。当時、ちょうど日露戦争が勃発し、そこに巻き込まれて殺りくされる中国人がいた。もともと医学を学ぶ夢を抱いて日本に行った彼は、講義中に上映された戦地のスライドに震撼させられた。それは中国人がロシア側のスパイと見なされて処刑され、それを多くの中国人が無表情に傍観している場面だった。翻って周りの日本人学生を見ると、誰もが万歳を叫んでいた。彼はこのショックにより、体が丈夫なだけで精神がまひした国民はどうしようもなく、医学で中国人の体を丈夫にするよりも、中国人の精神を改造し、啓蒙と健全な人格育成を進めることが第一だと突然悟った。病気を治療する志から国を治療する志への転換は、後日の彼の思想的基盤を固めた。
弱国から来た留学生として、周樹人は学校内で、排外的愛国主義に燃えた日本人学生の冷淡な視線と中傷を嫌というほど受けた。このため、真剣さ、慎み深さ、寛容、善意を備えた藤野は周樹人の目には自然と異彩を放って見え、信頼できる人物となった。裏に「惜別 藤野 謹呈 周君」と書かれた藤野の肖像写真はいつも周樹人=魯迅の手元に置かれ、最後までなくすことはなかった。この信頼と友情は20年余りの発酵を経て、ついに不滅の作品になった。
藤野厳九郎が周樹人に贈った肖像写真とその裏面に書かれた言葉
仙台の経験で人道主義者に
仙台での経験があったからこそ魯迅はより広い心を持てたのだと私は考えている。民族意識の目覚めにより、彼は揺るぎない愛国者へと成長した。さらに医学の勉強と藤野との出会いにより、彼は人間の素晴らしさと善き人の存在を信じるようになり、これは彼が後に人道主義者、コスモポリタン、国際主義者になるのを間違いなく後押しした。まさにこうした揺るぎない信念により、魯迅は20年余り後、挫折の日々の中で『藤野先生』を執筆し、その末尾に次のように書いたのだと私は推測する。「夜中に疲れて怠けたくなるたび、顔を上げ、明かりの中で彼の黒く痩せた顔をちらりと見る。まるで抑揚のある言葉で話し出そうとしているかのようだ。たちまち良心が戻り、勇気が増す。そこでたばこに火を付け、『正人君子』のやからにひどく憎まれる文章を再び書き続けるのだ」
魯迅『藤野先生』の直筆原稿
藤野は魯迅と別れた後、再び会う機会に恵まれることはなかったが、心は終始通じ合っていたに違いない。彼のその後の状況はそれを証明している。『藤野先生』の発表後、魯迅は20年余り別れを惜しんできた恩師の近況を多方面に尋ねた。「私が自分の師と仰ぐ人のなかで、彼は最も私を感激させ、私を励ましてくれた一人である」。藤野は文豪・魯迅が自分のことを書いたと知った後、自身の苦境を考え、魯迅に終始連絡しなかった。36年10月、魯迅の訃報が日本に伝わった。藤野のおいの回想によると、新聞に掲載された魯迅の写真を見て、藤野は頭上に新聞を掲げて何回か拝んだという。魯迅が自分の写真を壁に掛け、作品内に書いただけでなく、何年も自分を捜し、自分か子孫に会いたがっていたことを知り、藤野は深く後悔し、「謹んで周樹人様を憶ふ」と題した一文を雑誌に寄稿した。
藤野厳九郎が書いた「謹んで周樹人様を憶ふ」
藤野は中国人留学生の周樹人を大事にした理由をおおむね次のように説明している。「日清戦争から相当の年数が過ぎていたが、まだ多くの日本人が中国人を『チャンチャン坊主』とののしり、悪口を言っていた。仙台医学専門学校(現東北大学医学部)の同級生にも周樹人を白眼視してのけ者にする者がいた。自分は少年時代に漢文を勉強したことがあり、中国の先賢を尊敬しているため、中国から来た人を大切にしようとした。これが周樹人に親切だ、ありがたいというように考えられたのだろう」
不幸な歴史の中で友好の種
藤野の正義感は戦中の彼の態度に反映されている。37年に七七事変(盧溝橋事件)が勃発し、日本軍は全面的に中国を侵略した。軍需品の薬品購入が激増したため、薬品価格は暴騰した。田舎にあった藤野の診療所には多くの備蓄薬があった。しかし、彼は高価な買い取りを望む薬品業者を前に、それらの薬は地元の村民らの需要を満たすために保管していると言い張り、少しも売らなかった。彼は子どもたちに「覚えておくんだ、中国は日本に文化を教えてくれた先生だ」と話した。
藤野はこのように力の及ぶ限りのやり方で不当な中国侵略戦争をボイコットした。しかし、彼は自分の祖国が彼の尊敬する国と握手する日までは生きられなかった。藤野の長男恒弥は従軍を余儀なくされ、45年1月に広島で病死した。当時71歳の藤野は息子を失った悲しみをこらえ、診療所に戻って元の仕事で生活を維持した。終戦4日前の8月11日、彼は過労による病気で不幸にも世を去った。
魯迅は全面的な抗日戦争の勃発前年に急逝した。彼は生前、一方では抗戦の情勢を深く気に掛け、もう一方では中日両国にいつか「劫波を度り尽くして兄弟在り、相逢いて一笑すれば恩仇泯ばん」という日が訪れることをなおも固く信じていた。
不幸な歴史を背景としながら、魯迅と藤野の物語は貴重なものに満ちている。民族的偏見を超越し、尊敬と善意の基盤の上に確立されたこうした個人的な友情は、両国の民間友好、ならびに人々の間の信頼と和解の種をまいた。
内山完造も無私の援助
平和を愛し、中国を尊敬し、進歩的な思想を持つ日本の友人160人余りと魯迅は生涯を通じて付き合った。31年、上海に留学した増田渉は魯迅を師と仰いだ。魯迅はかつて藤野が自分に接したように、とりわけこの日本人学生の面倒を見た。増田は次のように回想している。ある時、魯迅が藤野の写真を取り出して彼に見せた。魯迅は「先生が今どんな状況なのか私は知りません。恐らく……ひょっとすると……もう亡くなった? お子さんがいるかどうか知りませんが、お子さんを捜し出せるなら、それでもいいです……」と話した。
上海での人生最後の9年間で、魯迅は生涯信頼した友人の内山完造と知り合った。内山書店を拠点に、魯迅は晩年の多くの計画を達成し、無数の感動的な物語を残した。この間、中国は国内的にも国際的にも最も闘争が激しい時期を迎え、魯迅もその思想が最終的に形成され、進歩・正義・平和・人民の側に揺るぎなく立ち、その闘いと吶喊の人生を全うした。激動の時代を前に、彼は「心事浩茫として広宇に連なり、声無き処に於いて驚雷を聴く」と詠んだ。日本軍国主義の中国侵略の拡大を前に、彼は一方では揺るぎなく糾弾し、もう一方では軍国主義分子と日本の民衆を区別し、「日本と中国の民衆はもともと兄弟だ」と信じた。命の終わりを前に、彼は「外で進行する夜、無窮の遠方、無数の人々、全て私とつながっている」と記し、人類を気に掛ける気持ちの大きさを示した。この過程で内山が与えた援助は非常に多く、また無私のものだった。
魯迅の死後、内山は引き続き奔走し、魯迅作品の普及を推し進めた。終戦で帰国した後には日中友好協会初代理事長を務め、民間友好の推進に力を尽くした。
内山は戦後も魯迅の家族や藤野に関わり続けた。56年、魯迅の妻・許広平が原水爆禁止世界大会出席のために訪日した。彼女はもともとこの機会に福井県を訪問し、藤野の墓参りに行く予定だったが、連日の活動のために過労となり、やむなく内山に墓参りを託した。内山はこれに応えて墓参りし、藤野の墓の前で許広平の手紙を朗読した。「劫波を度り尽くして兄弟在り、相逢いて一笑すれば恩仇泯ばん」という情景を目にできなかった魯迅と、「中国は日本に文化を教えてくれた先生だ」といつも心にとどめていた藤野の霊にとって、これは非常に大きな慰めになったはずだ。
新時代にも交流途絶えず
民間の力をよりどころとして、60年には仙台市に「魯迅の碑」が、64年には福井市に「惜別の碑」が建てられた。
民間と政府の二重の努力を頼りに、また「以民促官(民をもって官を促す)」によって、両国は72年、ついに国交正常化を実現し、指導者が手を握り合った。
魯迅の家族と子孫は、藤野を語り継ぎ、その子孫と付き合うことを忘れなかった。許広平はもちろんのこと、魯迅の長男の周海嬰もそれに大いに力を入れた。さらに、孫の周令飛さんはいまや魯迅文化基金を運営し、その事業を受け継いでいる。
80年には藤野の出身地・福井県芦原町(現あわら市)に、周海嬰の揮毫による「藤野厳九郎碑」が建てられた。この縁により、芦原町と魯迅の故郷・浙江省紹興が友好都市になった。魯迅と藤野の友情はこれらのルートと形で伝わり続け、美談になった。
2009年には、魯迅が『藤野先生』を執筆した廈門大学で、周令飛さんと藤野の孫の幸弥さんもしっかりと手を握り合った。
廈門(アモイ)で握手する魯迅の孫の周令飛さん(左)と藤野厳九郎の孫の幸弥さん
17年には、内山書店100周年に際し、上海で記念活動が行われた。上海内山書店旧跡前で、内山のおいの籬さん(現内山書店会長)と周令飛さんが歴史的な握手を交わした。『人民中国』はその瞬間を目撃し、記録した。
魯迅が切り開いた中日間の個人的な友情は、新しい時代においても途絶えることなく続き、未来に希望を与えている。
上海内山書店旧跡前で握手する魯迅の孫の周令飛さん(右)と内山完造のおいの籬さん(写真・王浩/人民中国)
国交正常化50周年でも手本に
『藤野先生』を顧みることは、今日において特別な意義を持っている。
第一に、この作品は中日間の個人の友情を文章化した先駆けだ。20世紀初頭、多くの中国の文人が日本に渡ったが、日本の有識者との友情について書き残し、後世の人々を励ました者は、魯迅のほかに決して多くない。
第二に、魯迅は20世紀に海外へ中国の物語、中国と世界の物語を上手に発信した先駆けでもあった。魯迅の小説やほかの文芸作品により、中国の現代文化は初めて世界に紹介され、広く伝わった。魯迅作品は中国現代文学の海外進出の嚆矢になった。
第三に、「無窮の遠方、無数の人々」に対する魯迅の心配りが示す人類への思いやり、ならびに魯迅と藤野の賢人同士のいとおしみは、時空を超え、今日の人類運命共同体推進に人間主義の高みをもたらしてくれる。
中日友好の基盤は民間にある。中日両国の間には多くの問題や困難が存在するが、理解を深め、見守り合い、助け合い、歩み寄ろうとする人々の願望には堅固な基盤がある。東日本大震災の被災地に対する中国人の無私の援助であれ、新型コロナウイルス感染症の拡大当初に日本から届いた「山川異域、風月同天(山川域を異にすれども、風月天を同じうす)」「武漢加油(頑張れ武漢)」などの励ましであれ、全ては協力して困難を克服する中日両国の可能性を示している。歴史的な変動期を前に、またまもなく中日国交正常化50周年を迎える節目で、新時代の要求に合った中日関係の構築を背景に、魯迅と藤野の物語は私たちが揺るぎなく民間の友好を推進し、自信を持って人的交流、文化交流を行い、中日関係を全く新しい境地へ推し進めるかがみになるだろう。