銅像と鐘に願いを託して 隠元禅師ゆかりの興福寺開創400周年

2022-01-29 14:02:59

王朝陽=文・写真

 隠元禅師は1654年、長崎の興福寺と在住の華人に招かれ、弟子と共に海を越え日本に渡り仏教を広めたが、中国の思想や建築、彫塑、書、篆刻、印刷、音楽、医学、料理などの文化と生活をも伝えたことで、日本文化に大きな影響を与えた。隠元禅師が伝えた、いんげん豆、レンコン、煎茶、明朝体は、いまでは日本人の生活にすっかり溶け込んでいる。

 昨年11月14日、隠元禅師が日本到着後に最初に入った長崎の興福寺で、開創400周年の記念法要と中国から贈られた隠元禅師銅像の開眼式、「世界平和の鐘」の撞き初め式が行われた。中国と日本からオンラインとオフラインで合わせて200人余りの関係者が参加し、式典を祝った。張大興中国駐長崎総領事、中村法道長崎県知事、日本の黄檗宗の高僧らが参加し、孔鉉佑駐日本中国大使や中国仏教協会などから祝電が寄せられた。

 

東明山興福寺は日本最古の黄檗禅宗の唐寺で、黄檗宗開祖の隠元禅師が日本初渡来の際に住持した名刹だ

 

中日の友情を表す鐘と銅像

 当日早朝の長崎は大雨に見舞われたが、式典開始の10時前には雨脚がすっかり遠のいた。張総領事や中村知事ら中日両国の来賓が共に「世界平和の鐘」をつき、隠元禅師の銅像の除幕が行われた。

 中国の福建省から贈られた「世界平和の鐘」は昨年2月3日に長崎の興福寺に到着し、26日に設置が完了し、境内の鐘鼓楼につるされた。197・2㌢という高さは中日国交正常化の1972年から取られており、両国民が共に伝統的な友好関係を強めてほしいという願いが込められている。鐘の正面には中日友好と平和共存を象徴する「世界和平」の文字が、反対側には黄檗宗が永遠に伝わることを願う「黄檗流芳」の文字が刻まれている。

 かつて興福寺にあった鐘は1940年に戦争のため供出された。2019年11月、当時の福建省党委員会書記・于偉国氏が長崎県を訪問して興福寺を参観した際に鐘がないことを知り、中村知事との会見で、福建省が新たに鐘を造り友好の証として寄贈したい旨を申し出た。式典では80年以上の歳月を経てよみがえった鐘が、中日両国民共通の願いである平和の祈念を込めて7回鳴らされ、その厳粛な音色が境内に響き渡った。

 式典では隠元禅師の銅像の除幕も行われたが、この銅像も中国から贈られたものだ。中国美術館館長で著名な彫刻家の呉為山氏が、興福寺開創400周年を祝って制作したもので、台座には呉氏の要請で、日本の篆刻家・書家の師村妙石氏による「隠元禅師像」の文字が彫られた。両国の平和・協力という願いが、この像には凝縮されている。

 呉氏は祝辞の動画で、銅像制作に対する思いについて、「中国と日本は一衣帯水であり、多くの文化交流の物語を生み出している。中日国交正常化50周年を迎える今、隠元禅師像が興福寺に建つことは、日本の人々の隠元禅師への思いや中国文化への愛、中日友好が世代を超えて受け継がれていくことへの願いを表している。人類が共に新型コロナウイルスと闘うさなかに隠元禅師像が創り出され、人類運命共同体の構築という使命を担い、再び日本に『渡った』ことは、中日友好の絶え間ない強化に、より大きく貢献するだろう」と語った。

 黄檗宗の近藤博道管長は「隠元禅師の像の前に立つことで、黄檗宗が日中民間交流を引き続き深化させ、隠元禅師の教えをさらに広めていくという重責をより大きく感じる。1654年に隠元禅師が初めて興福寺を訪れた際、『祖道暗きこと久し、必ず東に明らかならん』という思いを込め、東明山という山号をつけた。当時の禅宗は衰退していたため、隠元禅師は興福寺が禅宗の再興を果たすことを願っていたのだろう」と感慨深げに語った。

 

黄檗宗の近藤博道管長から興福寺の松尾法道住職に贈られた「東明」の揮毫(写真・馮学敏)

 

中日交流への切なる願い

 隠元禅師は1661年、京都に黄檗山萬福寺を開創、その後黄檗派は徐々に規模を拡大し、明治以降は黄檗宗と改称、日本三大禅宗の一つとなった。禅宗を再興させたいという隠元禅師の願いはここにかなった。長崎はまさに禅宗再興の出発点であり、新中国成立後の中日関係にとっても重要な出発点となっている。長崎県議会は早くも1971年7月に日本政府に対し、中華人民共和国との正常な外交関係を早急に回復するよう求める決議を採択、翌年9月29日に中日国交正常化を果たしたわずか二十数日後には、久保勘一長崎県知事(当時)が県の代表団を率いて訪中している。

 長崎の対中交流への熱意に触れ、昨年9月に着任したばかりの張総領事は大変感動したという。式典終了後の取材に対し「私の外交官生活の中で、最も熱烈な歓迎を受けたのが長崎だった。先だって私は長崎の政界、学術界、経済界の人々にお会いしたが、耳にした最も多くの言葉が『新型コロナウイルスの流行が一日も早く収束し、日中間の人的往来が再開されることで一刻も早く中国に訪問し、中国との関係強化を図りたい』というものだった」と語った。

 「今日の興福寺開創400周年記念式典は、一つの古寺と中国が行ってきた交流の縮図と言えよう。中国文化が日本に広まる過程でかつて長崎が果たした窓口と懸け橋の役割を、現代に生きる私たちに見せてくれた」と、張総領事は長崎の対中友好の歴史に触れ、さらに、「中村知事は私に、『中国文化は長崎人の血に脈々と流れ、生活に深く浸透している。だから私たちは、長崎の発展は中国との交流に基づいていると常に主張してきた』と語った。隠元禅師に代表される中国文化の源泉は、中国と長崎を強固につなぐ絆だと言えよう」と見解を述べた。

 長崎の対中友好の良好な民間感情を維持し、友好の伝統を次世代へと引き継いでいくため、中国駐長崎総領事館は中日国交正常化50周年と福建省・長崎県友好省県締結40周年を機会に、中国と長崎の青少年交流促進のための一連のイベントを計画中だ。イベントの内容はさまざまで、毎年恒例のお花見交流会に青少年交流を組み込むことや、福建と長崎の学生によるオンライン交流会などが予定されている。現在計画が進められている新規イベントの一つが、長崎の若者や学生に「身の回りの中国」を探してもらい、その発見の過程を作文か写真で発表してもらうというものだ。

 早朝の雷雨とは打って変わって、式典の取材が終わる頃には日差しすら見え始めた長崎。かつて隠元禅師が興福寺に東方の明かりとなる願いを託したように、新型コロナウイルスの流行に妨げられて久しい中日民間交流にも雨後の晴天が訪れ、長い夜の後の朝日のように、より大きな力が発揮されていくことだろう。

 

「世界平和の鐘」を鳴らす中日両国の来賓

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