AI翻訳の未来を展望

2025-04-14 09:39:00

劉徳有=文 VCG=写真

年、人工知能(AI)分野の関連技術は新たな進展を続け、AI翻訳の関連アプリやソフトウエアも日に日に増えている。ChatGPT(チャットGPT)などの新たなAIツールが言語の翻訳にますます多く応用され、すでに相当正確かつ流ちょうな翻訳テキストの生成が可能となっている。今後、人々の想像をはるかに超える驚くべき発展をさらに遂げる可能性さえある。 

筆者は典型的な「科学音痴」で、AIについては門外漢、長広舌を振るうことはできないので、個人的な感想を述べるにとどめたい。 

1950年代初期から中日翻訳通訳の仕事にずっと携わってきたが、あの頃は、将来、翻訳が機械に取って代わられるなどとは想像もしなかった。科学技術の飛躍的な発展は、翻訳の仕事に携わる人々、特にそれに従事したいと望んでいる若者たちを総じて不安な気持ちにさせている――翻訳はAIという便利な道具に「飯の種を奪われる」のではないか、と。 

AI翻訳に関する小実験 

このような疑問をもって、最近、中国国内でよく使われるAI「Kimi」を使って、小さな実験を行ってみた。実験の課題は次の松尾芭蕉の俳句を中国語に翻訳することだ。 

やがて死ぬ 

けしきは見えず (せみ)の声 

質問を入力すると、たった数秒ですぐにチャット画面に二句の七言詩が現れた。 

终归一死无形迹,蝉鸣声声入耳来。 

続いて、AIにこれを漢俳(55三句)に翻訳するよう要求した。現れた結果は次のようなものだ。 

终将归尘土,蝉鸣不知死将至, 

声声入夏深。 

これにとどまらず、さらに友人に頼んで日本でチャットGPTを使って「55」の漢俳に翻訳してもらった。以下がその翻訳の結果だ。 

终将逝去,死意无痕蝉声远, 

蝉鸣幽且深。 

本来、私が翻訳させたかったのは「55」の漢俳だったが、結果的に「45」に訳されてしまった。その上、句尾は押韻していないし、原句の季語の「蝉」の字も訳句の中に2回出てしまっている。 

芭蕉のこの俳句は、筆者自身もかつて翻訳してみたことがある。 

将要弃余生,却如无事竟安宁, 

噪蝉鸣不停。 

この翻訳案には三つの特徴がある。全ての句が押韻していること、平仄(ひょうそく)が合っていること、原句の意味をほぼ訳出していること。 

この実験から、AI翻訳と純粋な人力による翻訳にどんな違いがあるかということがはっきりと分かった。 

だが一方、この実験において、AIが示した極めて高い分析能力と総合力に非常に驚かされた。 

この問題に触れる前に、まず蝉の習性についてひと言。蝉の一生は、卵、幼虫、成虫の3段階に分けられる。卵から幼虫になって土にもぐった後、地中で少なくとも2年過ごすが、中には十数年過ごす場合もある。その後、地中から出て、木の幹にはい上がり、しばらく経ってから、頭部から背中の中央が裂け、羽化して成虫の蝉になる。成虫の木の上での命はとても短く、1カ月ほどしかない。真夏、オスの蝉は全力で鳴き、交尾し、繁殖する。ここから、蝉の寿命は長いが、地中から出た後は、ひと夏過ごすだけで死んでしまうこと、その命は極めてはかないことが分かる。 

AIの分析では、芭蕉のこの俳句は禅宗の「無常観」と「空」の思想を表しており、禅宗は自然の変化を観察することを通して生命の真の意味を悟ることを強調し、蝉の声という自然現象をもって、読者が生命の瞬間と永遠を理解するよう導いている、というのだ。 

これだけでなく、AIは芸術の面からも分析を行って、以下のように指摘している。芭蕉の俳句は簡潔だが奥深い芸術的表現力で有名だ。芭蕉はたった17音節で、哲学的思考に満ちた画面をつくり出した。この俳句が表現しているのは生命が間もなく終わることだが、重苦しさや悲観的な感情は帯びていない。逆に、取り入れられた蝉の声は人々に静かで深い感覚を与え、生命、自然、宇宙の秩序に対する人々の深いレベルの思考を活性化させた。 

筆者の要求に従って、AIは筆者が翻訳した漢俳にも触れているが、過分の褒め言葉は別として、漢俳は原句の境地をとどめていると同時に、中国語の韻律とリズムも融合させていると評価している。第1句の「将要弃余生」は生命が間もなく終わるという意味を直接的に表現し、第2句の「却如无事竟安」は生死を超越した態度を描き、最後の一句「噪蝉不停」は原句の中の「蝉の声」と呼応している。蝉の声は夏の象徴として生命の循環と季節の移り変わりも暗示している。 

AIは最後に、「全体として、この翻訳は原句の境地を伝えていると同時に、中国語の美的感覚とリズムも表している。成功した異文化交流と芸術の再創作といえる」と総括した。 

これだけでなく、筆者が感嘆したのはAIが二分法と全面性を堅持していることだ。AIは最後に、「しかし、俳句の翻訳は往々にして各人が各様の見解を持つもので、翻訳者によってさまざまな理解と表現方法がある可能性がある」と指摘することも忘れていない。 

思うに、ある面において、AI翻訳ツールが確かに驚くべき能力を見せていると認めなければならないだろう。速度にしろ正確性にしろ、AIは一般的な人力による翻訳をある程度超えている。これは、確かに一部の翻訳、特に簡単で重複のある文章の翻訳作業が徐々にAIに取って代わられることを示している。しかし、AIは本当に人力による翻訳に完全に取って代わることができるのだろうか? 

「ラストワンマイル」は人の手 

これには翻訳の本質を検討する必要がある。翻訳は、単純な「文字の引っ越し」ではなく、2種類の異なる考え方の転換だ。この意味からいって、翻訳とは2種類の異なる文化の交流である。 

思うに、翻訳が成功するかどうかは、単純に翻訳者の転換能力によって決まるのではなく、より重要なのは、翻訳者個人の読解能力と各方面の教養や素質だ。それには、翻訳者の原語と訳語のレベル、知識の「幅」、原作に対する理解の深さ、十分に豊かで繊細な感情を持っているか、などなどが求められる。 

最も理想的な翻訳は「神似(内面が似ている)」、すなわち「伝神(神髄を伝える)」であることだ。これには作品の時代背景、環境、生活、風俗習慣などについての深い理解が欠かせない。 

それからもう一つ、絶対に無視できないことがある。それぞれの語句をどう翻訳するかはもちろん重要だが、文章の全体の流れに、より多くの注意を払うべきということだ。それぞれの単語、語句が全て解決され、正確に翻訳されても、訳文の「全体の流れ」が把握できていなければ駄目である。この点は、人間による(人の知恵による)翻訳であっても、よく見過ごされる。厳しくいうと、一つの文章あるいは一つの作品の思想的内容、言語表現、スタイルの特徴などは完全な統一体であり、訳文も必ずありのままに再現し、完全な統一体をつくり出さなければならないのだ。このような目標をAI翻訳が達成するのはおそらく難しいだろう。 

このほか、人間の脳には「推敲(すいこう)」の機能があるが、機械にはおそらくできないことだろう。 

「丸ビル」は「東京丸ノ内ビル」の略語。それを知らずに、字面だけ追って翻訳し、その結果、「円形ビル」というような「珍語」を生み出したという話を聞いたことがある。 

また、魯迅の短編小説『故郷』の中に、「我在朦胧中,眼前展开一片海边碧绿的沙地来」という一文がある。 

この一文を、翻訳家の竹内好氏は1955年11月、「ぼんやりした私の眼に見はるかす海辺の緑の砂地がうかんでくる」と訳した。 

7610月に翻訳者は「推敲」を重ね、「まどろみかけた私の眼に、海辺の広い緑の砂地がうかんでくる」と修正した。人間の翻訳者の推敲は、翻訳を不断に向上させることができる。 

翻訳は一種の文化の伝達、感情の表現だ。同じ単語でも、異なる言語環境と背景の下、異なる受け手に対し、異なる感情を含むとき、それぞれ異なる翻訳案が生まれる可能性がある。例を挙げて説明しよう。 

60年に日本の劇団が訪中して『女の一生』を上演した。劇中で、一家の主が突然倒れ、意識を失い、女主人公は驚きおののいて夫を抱え感情を込めて、「あなた、あなた!」と叫んだ。このような状況に対し、「你,你!」のような直訳は論外として、AIが提案する翻訳は「亲爱的!」(いくらか現代風)あるいは「老公,老公!」だ。だが、この翻訳案は物語の舞台である日本の時代背景と登場人物の身分や、当時の中国の観客の習慣に合っておらず、「違和感」を覚えさせやすい。中国では、このようなとき、女主人公はおそらく夫の名前を呼ぶか、あるいは切羽詰まった感じで「孩子他爸! 你怎么了!?(お父さん! どうしたの!?)」と叫ぶはずだ。 

上述のように、AI技術の発展は日進月歩で、従来の人間による翻訳に大きな衝撃を与えていることは、争えない事実だ。多くの人が、将来、AI翻訳が人力による翻訳に完全に取って代わるのではないかと心配しているが、このような不安は確かにうなずける。 

しかし、目下のところ、AI翻訳技術は早くて安い翻訳サービスを提供でき、大規模な重複のある仕事に活用されてはいるが、原文の言語環境、背景、情感などの多くの要素に基づいてレベルの高い上質な翻訳をすることはやはり難しい。特に複雑な語義と比較的高い専門性のあるテキスト、例えば、法律文書、文学作品などは、人間による翻訳の正確性と柔軟性が必要だ。AI翻訳と人間による翻訳にはそれぞれ優位性があり、異なる翻訳ニーズに適用できるといえる。だから焦る必要はない。私は思い切ってこう言いたい。「AI翻訳が人間による翻訳に取って代わることは永遠にない」 

AIの分野では、今後、国際交流と協力がますます必要となってくるのではなかろうか。本誌の前編集長(現特別顧問)王衆一氏は昨年の全国政治協商会議でこの問題について提案を出したところ、直ちに大きく取り上げられ、注目された。 

AIの未来の大きな流れを展望すると、 「機械翻訳+人の知恵」――およそこのようになるのではなかろうか。おそらく、未来の90%の翻訳は翻訳ソフトによって完成できるだろうが、残りの10%には高レベルの翻訳人材がなお必要で、結局はこの「ラストワンマイル」の翻訳作業を人間が実行する必要がある。人間による翻訳は「イノベーション」と「情感」において、自身の発展のために、ふさわしい位置付けを見つけるべきだ。個人の能力を不断に向上させ、AIをうまく使いこなすことを学び、この技術によって翻訳に「もう1組の翼を生やす」ようにしなければならない。こうすれば「より高く飛ぶ」ことができるだろう。 

機械とは結局のところ人間の頭が発明して作り出したものである。どんなときでも、決定的な役割を果たすのは、「機械」ではなく「人間」だ。 

 

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