馬場公彦=文
北京大学で暮らし働く私にとっての生活圏は海淀区である。海淀区は北京大学のほか清華大学、中国人民大学など高等教育研究機関が集中し、中関村を中心にハイテク企業やショッピングモールが集中している。世界有数の先進的科学技術が集積した、研究開発・商業地区である。三十数年前、初めて北京を訪れたとき、まさにここはプラタナスの大木の街路樹が大きな木陰をつくり、馬車が行き交うのどかな「村」だった。
私の海淀区での一日は早朝7㌔のジョギングとともに始まる。今のところ定番のマイコースは四つある。北京大学キャンパスコース、清華大学キャンパスコース、円明園コース、頤和園コースである。番外編として西の郊外に向けて公共交通機関を1時間ほど乗り継いだところに植物園がある。植物園といっても温室付きの花畑のようなものではない。香山の水源に向かって南北に2㌔はある野趣に富んだコースだ。おおよその公園は私のような60歳以上はタダで気軽だ。華為の地図ナビアプリ高徳で走行記録を取りながら走ると、1㌔ごとに音声でラップを教えてくれたり、「いい感じですよ、頑張って」などと掛け声をかけてくれるのがうれしい。
毎朝のジョギングを通して北京にまつわるいくつかの通念が覆っていった。
空気がすがすがしいこと。これらのコースはいずれも並木や植樹が行き届いていて、滴るほどの緑に囲まれているせいだろう。
水が豊かであること。北京は乾燥し水不足に悩む人口過密都市と思っていたが、至るところに池がうがたれ幾筋もの川が流れている。海淀区という、二つのさんずいを持つ地名に納得した。
山が近いこと。北京は凹凸のない広大な大平原に設けられた歴代の首都である。確かに市街地を歩くと、東京と違って全く坂がないが、海淀区のある西北部は太行山脈が近くに迫っている。とはいえさほど高く険しい山並みではなく、日本人の里山への郷愁をいざなう。百望山森林公園のような、地下鉄で手軽に山行が楽しめる山を抱えている。
人が少ないこと。これは早朝6時半あるいは7時の開門とともに公園に駆け込むことによる。
海淀区は清朝時代に造営された広大な庭園の上に形成された都市空間である。円明園や頤和園は1860年からの英仏軍の徹底的な破壊に遭って、往時の栄耀栄華をしのぶような建築物は何一つとどめてはいない。だが、康煕・雍正・乾隆の三皇帝にまつわる遺跡や碑文がそこここに残されている。
当時の皇帝は首都の中枢にあって政務をつかさどる紫禁城(故宮)を離れて、北方に広大な安息の空間をしつらえた。故宮は――天壇もそうだが――一切の破格を許さない厳格なシンメトリーの秩序空間である。公務に煩わされない休息は、江南の貴族たちが私邸に抱えた、奇岩、池、四季折々の草花、緑豊かな並木道などからなる庭園空間を再現することによって得られるとされた。頤和園の昆明湖は杭州の西湖、円明園の庭園設計は蘇州の獅子林の庭園のコピーである。
私の一番のお気に入りは円明園コース。一筆書きで外周を巡ればちょうど10㌔のコースとなる。早朝だとその間、警備員以外、ほとんど人に出くわさない。朝日を浴びながら皇帝の広大な庭園空間を自在に駆け巡って思うのは、自然と身体と生活が共にあるということ。35年間通勤電車にもみくちゃにされてきた昨日までの生活からは得られない充実感である。
朝焼けの中の円明園。さて今日はどこを走ろうか……
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