詩歌の伝道師・金中の夢

2020-07-20 11:24:11

馬場公彦=文

日本が中国から長期にわたって受けてきた文化的恩恵の一つに漢詩がある。日本では訓読という独特の読解法によって訳し、日本語で朗誦してきた。日本の和歌を初めとする定型詩は、漢詩の影響を強く受けつつ、数多くの作品が作られてきた。

だが、和歌・俳句といった短詩形文学は、まだ十分に中国で受け入れられているとは言えない。日本語と中国語では言語体系が違い、漢詩独特の平仄や韻律などの規律が日本の定型詩にはないからである。

和歌漢訳の勘所は、元の五七五七七の音数を漢字の文字数でどう定型化するかである。この難問に挑み、三四三四三の定型を提唱し訳詞を実践しているのが、友人の西安交通大学外国語学院教授の金中さんである。漢訳するときは字数を合わせるために意味を添加したり、元の構文を組み替えたり、対偶表現に直したり、平仄や押韻を工夫したりといった裏技を駆使している。

1975年生まれの金中さんは、乳児の時、毎日出勤する母に背負われて唐宋詩を聞き、3歳で50首の絶句を暗唱し、8歳の時、西安市の青少年唐詩朗誦コンクールで『長恨歌』などを吟じて1等賞を獲得、日本に留学して19歳で自ら漢詩を実作し、24歳で自作118首を収録した漢詩集を出版したという。まさに神童である。

金中さんと初めて会ったのは、いまから3年前の2017年のことだった。その母堂と当時の勤務先にわざわざ私を訪ねてくださった。金中さんからいただいた留日時代の詩集を読むと、勉学への熱き思いのほとばしりとともに、読書にふけりアルバイトに精勤し、四畳半のアパート生活のわびしさの中で、詩作が心の慰めとなっていたことが惻々と伝わってくる。そんな中で一筋の光明が彼の前途に広がった。それが帰国後に訪れた、後に金中夫人となるすてきな女性、張珊さんとの出会いをうたった詩『前縁』である。張さんは現在、西安音楽学院の教師で古筝の演奏家でもある。

詩と音楽をつなぎ、日中の歌の交流を手掛けること。これが金さんの夢である。この感染拡大の折、金中さんが作詞し、張珊さんが作曲した『定能挺過去(きっと乗り越えられる)』という曲が、英語・スペイン語・フランス語はじめ世界各国の言語に翻訳され、音楽ビデオが製作された。日本では青山紳一郎氏が「小さな祈り」という訳詞を付けて、東京芸大出身でテレサ・テンの遠縁の姪に当たる幽燕さんが歌っている。

長期休暇でたまたま北京大学に来ていた金さんは、私が北大に勤務していることに学部の課程表を通して気付き、再会を果たした。それ以来、金さんとはカラオケの歌友でもある。私と同様、こよなく日本の流行歌を愛好する彼には『さらば涙と言おう』『涙そうそう』『また逢う日まで』などの名曲の漢訳詩もある。

さらに『早春賦』『里の秋』『故郷』などの唱歌の訳詞はCDになって中国で発売されている。中国人なら知らない者はいない『送別』という歌、実はもとは米国の歌で、明治期に日本に入って犬童球渓によって訳詞が付けられ『旅愁』として歌われていたものを、当時日本に留学していた李叔同が中国語の歌詞にしたものだ。日本の歌が米国と中国の歌曲文化の橋渡しをしたことになる。

日本人に愛唱された中国のポップスと言えば、テレサ・テンの『何日君再来(いつのひきみまたかえる)』『夜来香(イエライシャン)』くらいしか思い浮かばない。いつかは中国の流行歌が日本語の韻律になじんだ訳詞に換えられて日本人の情感を満たし、先人たちが愛誦した漢詩のように文化交流の一助となる日が来ることを願っている。

 

2005年、東京で開かれた「金中漢詩朗誦会」での金中さん(本人提供)

関連文章