作家・路遥の世界

2020-08-10 16:37:02

馬場公彦=文

 今の中国と中国人を知る上で格好の文学作品とは何だろう。魯迅も老舎もいいが、新中国成立以後のいわゆる当代文学から選ぶとなるとはたと困ってしまう。日本は世界有数の翻訳大国で、おびただしい数の中国当代文学作品が邦訳されている。たとえば『季刊中国現代小説』(蒼蒼社刊、通巻72号)には150人の作家による300篇を超える中短編小説の翻訳が収録された。また当代の女性作家に限って日本の雑誌に掲載された邦訳作品の数を調べてみたら、180篇もあった。

 作品のリストを眺めていて、重大な欠落に気付いた。革命文学あるいは労農兵文学という、当代文学の本流ともいうべき作品群が敬遠されて、モダニズムや前衛的手法の際立つ作品に偏向しているのである。中国人にとって記憶に残る同時代の文学作品というと、『林海雪原』(曲波)、『創業史』(柳青)、『紅岩』(羅広斌・楊益言)、『白鹿原』(陳忠実)などだろう。中でも欠かせない作品が路遥の『平凡的世界』(1986年初版)である。だが、『林海雪原』『創業史』と並んで邦訳がない。

 『平凡的世界』は版元の新経典文化社に聞くと、同じく路遥の『人生』と合わせて発行部数が累計2000万部を超えているという。図書調査会社・開巻のフィクションの年次売り上げランキングを見ると、2016・18・19年のベスト10に入っている。大手ネット通販サイト・京東の昨年のリスト(総合部門)では5位にランクされている。全3冊、100万字に上る大長編小説であるにもかかわらず、超ベストセラー&ロングセラーなのである。

 北京に渡った昨年9月、私の研究室を訪れた新経典文化社の友人は、路遥について年末に清華大学でシンポジウムをやるから、パネリストとして出てくれという。その時の私はといえば、路遥を知らず、当代文学作品に親しまず、文学に疎い異邦人であった。中国人に愛読されてきた作品ならば、中国人の胸の底が垣間見えるかもしれないという探求心が湧いてきた。

 辞書を片手に読み進めるうちにとりこになったのは、作品の舞台となっている陝北高原の黄色い大地の魔力である。未踏の地なのに、民族の発祥・揺籃の大地とでもいうような郷愁の感覚にとらわれる。黄河のような悠揚とした時の流れの中で、社会の発展と個人の成長の記録が刻まれている。その基調には、勤勉と努力によって苦難を克服していけば、貧困から脱却し、活路は開け上昇していけるという希望に支えられた労働哲学がある。奮闘による逆境からの巻き返しと困難の克服というモチーフは、革命文学の伝統に通じる。

 北京大学の私の向かいの研究棟にいる陳暁明中国文学科教授の研究室を訪ねて話をしたら、この作品は「下層青年の精神史」だという。清華大学で発表した路遥論文を微信のモーメンツに流したら、友人たちから次々と愛読し感動した経験がコメントとして寄せられた。

 この作品のストーリーは見覚えがあった。発売当時、青年層を中心にベストセラーとなった島木健作『生活の探求』(正編1937年、続編38年)である。主人公の杉野駿介は都市から農村に戻ってタバコ栽培を通してタバコ組合を組織して、集団として生産と収益の拡大を図り、農繁期託児所の設置に奮闘する。駿介は言う。「大切なのは、簡粗な清潔な秩序ある勤労生活です。……僕自身はそういう平凡な単純な一種の努力主義を自分の生活の信条としたいと信じているのです」

 困苦奮闘の末に今日の豊かさと充実感があるという故事は郷土社会のぬくもりに包まれて紡がれていく。この郷土性は中国社会の原点である。そこには中国を超えた感情のつながりがある。路遥文学が国境を越える可能性が、この郷愁の中に潜んでいる。

 

清華大学での路遥シンポジウム。2019年12月7日(写真提供・新経典文化社) 
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