日中関係故地探訪

2022-10-14 17:11:16

馬場公彦=文・写真 

この夏は引き続きの新型コロナの感染対策のため、河北省に小旅行(正定県と承徳市)をしたほかは北京で過ごすほかなかった。愛車(先月号に書いた電動車のこと)で市内一人観光を楽しもう、気ままな旅もいいけれど、せっかくならば何かテーマを決めて回ろうと思い立った。そこで、日中国交正常化50周年にちなんで、地図を調べて日中関係にゆかりのある場所を訪ねてみることにした。 

まずは人物から。日本と関係が深いといえば何といっても魯迅。魯迅は北京で4度転居しており、その一つ「西三条21号」が故居として保存され、その脇に魯迅博物館が建っている。展示は生涯にわたる詳細なもので、1902年からの東京の弘文学院、04年からの仙台医学専門学校での藤野厳九郎先生との出会い、06年からの東京は本郷で住んだ憧れの漱石の旧宅での暮らしと日本文学への傾倒、上海時代は内山書店での多くの日本人との交遊など、とりわけ日本と深い関わりがあったことが展示を通して伝わってきた。 

82年、初めて北京を訪れた時、街歩きに出掛けた。かつて魯迅が住んでいたとされる故居を訪ねてみようと地図を頼りにさまよっていると、胡同の四合院住宅に紛れ込んだ。出てきた老人にたどたどしい中国語で突然の来訪をわびると、なんとその老人は魯迅の弟の周建人だったのである。言われてみると鼻の辺りが魯迅によく似ていて、生物学を専攻しているというお話をなさった。建人は84年に物故しているから、その2年前に会ったことになる。そこは魯迅ら周家三兄弟が住んでいた西直門の「八道湾11号」だった。 

郭沫若紀念館。東京・岡山・福岡・市川と都合10年もの間日本に滞在した郭は、看護婦をしていた日本人の妻をり、彼女との間に5人の子をもうけている。四川省生まれで生まれて初めて房総で海水浴をしたときの初々しい写真のほか、魯迅逝去時の追悼文の日本語で書かれた生原稿など、貴重な展示品に興趣が増す。 

梅蘭芳紀念館。今年はちょうど「覇王別姫」上演100年に当たり、特別展を展示していた。京劇役者の梅は1919、24、56年の三度訪日している。41年の髭を蓄えた一枚の梅の写真が目を引いた。キャプションにはこうある。 

「このちょび髭を見くびるな、間もなく役に立つことになるだろうから。もしも日本人が分からず屋で、私を舞台に立たせようとしたら、牢に入れるなり、首をはねるなり、好きにするがよい。もしも日本人がわずかでも礼をわきまえているなら、この口実が彼らを門前払いにすることだろう」  

次に公園。北京の4月は玉淵潭公園の花見客でにぎわう。この桜は国交正常化の翌73年、日中友好を象徴する大山桜の植樹に始まり、90年に東北や山東から八つの品種を移植し、いまや2000株の桜花がに咲き誇る。 

都心部の一隅にある小さな双秀公園の中の翠石園は日本庭園。新潟県の谷村建設株式会社が84年に日中友好事業の発展のために日本から石や建築物を持ち込んで造園したもの。設計は造園家の中根金作氏。 

次に交流の現場。市北部に広がる広大な中関村公園は、かつて西北旺鎮と呼ばれ、「京西御膳米」として全国に名をはせた米どころ。公園の入り口に小さな郷情村史館が建てられている。その展示によると77年前後に日本の稲種を導入、翌年にそこの人民公社を中日友好人民公社と改名、なんと30回余りも現地の青年を福島県での農業研修に派遣したという。地区を南北に貫く道路は「友誼路」と名付けられた。 

最後に歴史事件の現場。市の南西部豊台区の盧溝橋。その脇の宛平城内に中国人民抗日戦争紀念館はある。日本人として、とりわけ「日軍暴行」部分の展示は、目をそらさずに参観しなければならない。 

  

魯迅博物館 

 

関連文章