雪漠文学の故郷・武威探訪

2026-01-21 12:36:00

本人にとって西域は遠い。想起するのは平山郁夫画伯が描く月の砂漠に長い影を引くラクダの隊商の幻想風景か。王維の『涼州詞』に「君に勧むさらに尽くせ一杯の酒/西のかた陽関を出ずれば故人無からん」とうたわれた茫漠とした辺塞へんさいの地の果てか。 

その西域の東端に位置するのが、河西回廊を西に向かって張掖―酒泉―敦煌と続く河西4郡の起点である武威(甘粛省武威市)。そこは筆者が愛読する作家雪漠が生まれ育ち、今も住んでいる地だ。今夏、雪漠に誘われて武威を訪れる機会に恵まれた。北京から蘭州まで飛行機で2時間余り、さらに高鉄で1時間余りのところにある人口150万人ほどの小都市。「凉州」の古称を持ち、南北朝時代(420~589年)に雲岡や龍門に先立って天梯山に見事な石窟をうがち、唐代にシルクロードの要衝として栄え、独自の文字を持つ西夏王朝の版図ともなった。かつては都城に囲まれ、多くの仏閣が立ち並んでいたが、1927年の大地震で城壁が崩れ、わずかに南門を残す他、往時をしのぶ歴史建築物は残されていない。 

雪漠の住まいは高鉄の武威東駅から30、人口200人ほどの陳児村。村民のほぼ全てが陳姓で(雪漠の本名も陳開紅)、はるかに祁連山の東端を望み、海抜1500の、玉米畑の広がる農村だった。雪漠はそこに2023年、通った小学校の跡地に、4棟から成る、5万冊の蔵書を収納する図書館や教室を備えた、200人収容可能の3階建ての書院を建てた。全国各地から集った愛読者たちが読書会に参加したり、各種ボランティア活動にいそしんだりしている。 

未明の農道を満天の星々と月明かりを頼りにそぞろ歩くと、家鶏と番犬の声のみが聞こえ、あたかも「隣国相い望み、鶏犬の声相い聞こえ、民は老死に至るまで相い往来せず」(『老子』)の「小国寡民」の理想郷さながら。 

周囲にはテングリ砂漠、ゴビ砂漠が広がり、塩湖が点在するのはかつてそこが大海であった証し。野生のラクダはとげのある沙米草をみ、アルカリ土壌のため周囲に草木の生えない塩湖の水を塩分補給を兼ねて飲む。雪漠の『大漠祭』『猟原』『白虎関』ら「大漠三部曲」の世界だ。作中で砂漠に彷徨ほうこうし行き倒れそうになった児と蘭蘭は、携行した油餅で命をつなぐ。宿泊した雪漠書院の食堂でも、その油餅が、沙米草の練り物とともに地元料理として振る舞われ、全粒粉の香ばしさが口中に広がった。 

雪漠は小説散文伝統文化論など100種ほどの書籍を世に送り、数々の文学賞を獲得し、70作品ほどが英韓など約30種の言語に翻訳され、武威の他、北京山東省広東省にもオフィスを構える。武威は農牧と遊牧生活圏の境界に位置し、冬は5カ月間、雪に閉ざされた農閑期を送る。ここでどのようにして雪漠の文学は生まれたのだろうか。 

雪漠は世界各地のブックフェアや各種イベントで講演や翻訳者とのワークショップを精力的に行い、国際的にも知られるが、その活動範囲は、20年、執筆に12年を費やした初長編小説『大漠祭』を世に出すまでのほぼ40年間、地元の農村を出ていない。数多くの小説作品もまた、武威以西の西部乾燥地域を舞台としている。 

自宅から3ほどの中学校に通い、中学卒業後は19歳で教師として自宅近くの中学校に赴任し、1歳年下の地元農民の学生と初恋に落ち、5年後に結婚。その中学校の訪問に続いて、次に勤めた小学校を訪れてみると、すでに廃校となっていたものの、当時住んでいた宿舎はそのまま残っていた。そこで独自の心理療法で訪れる村人たちの病を治癒したという。 

その後、1995年、地元の教育委員会に勤務。視察を兼ねて農村を巡り、村人への取材や、民間伝承の古書収集に没頭。後の作品群の題材となった。安月給の上、宿舎も配給されず、四合院の一室を借り、2009年まで、前後十数年に及ぶ蟄居ちっきょ生活を送るのである。その部屋がある裏路地に案内してくれた。その一帯は「雨亭巷」と呼ばれる市内場末の古い住宅街だった。妻にすら今に至るまでその場所は知らせておらず、ただ一度きり、父親においしい料理を振る舞おうと招いたことがあるだけだった。そのときも、室内は寒く、隙間風でコンロは着火せず、煙に巻かれて一晩過ごすのがやっとのことだったらしい。 

部屋に窓はなく天窓が切られていたが、沈思黙考のため光と音を遮断すべく電灯を設けず天窓を幕で覆い、暖房もないため冬は部屋に備えたバケツの飲用水が凍結したという。板敷のベッドが当時のままに放置されていた。ここで自宅に戻らず、午前3時起床、緑豆麺の一食のみ、『金剛経』『華厳経』の読経、静修、執筆に専心する日々を送った。 

自伝的散文『一個人的西部』にこの時期を回想してこう言う。「霊魂のあがきと生命の鍛錬により自分に打ち勝つ」「何も私を同化しえず誘惑しえず、私自身が一つの世界となって清澄なる眼光でわが道を独り行く」。達磨大師の「面壁九年」を上回る修練を積み、雪漠は悟りを得た。開悟の瞬間は、「母親の懐に抱かれ、大海に溶け込む」「霊魂の拠り所に至り、光明に照らされ、利衆の大心が得られた」という。 

雨亭巷での生活が、雪漠を物語作家から『西夏咒』『西夏的蒼狼』『無死的金剛心』ら「霊魂三部曲」の信仰作家へと変貌させたのだと思う。それからは、身体の深奥に宿る野生の生命力に任せ執筆ざんまいの作家生活に入る。神霊が憑依したかのごときその忘我状態を、雪漠は私に「霊魂の楽譜が、筆に任せて湧き出てくるのを文字に打ち込むだけ」と語った。自らは「一面の鏡」なのだという。慈悲をたたえた大いなる智慧は衆生の苦しみを映す。「孤独は孤単(ひとりぼっち)とは違う」とは、個我の魂が衆生を照らす境地を言っているのだろう。 

雪漠の最新作は史詩『娑薩朗スオサーラン』。中国文学史上、前人未到の、人類創世記ともいうべき神話世界の壮大な叙事詩だ。8万行100万字からなる作品は、まさに霊魂の楽譜が奏でる生命群の楽章である。そこには凉州の伝統口承芸能である「賢孝」のリズムと旋律が躍動している。盲目の人間国宝が披露する「賢孝」を鑑賞した。瞽女ごぜによる門付け放浪芸に近い。雪漠は面前で自作「娑薩朗」開頭の一節を「賢孝」の節回しで朗誦してくれた。その味わいを私なりに訳文で再現してみたい。 

取りい出したる三絃の音調えて 

謳うは娑薩朗の秘境 

物語は法界の秘密 

そは夢破るごと奇想天外 

旋律は霊魂の奥処から 

太古の風の運び来し 

娑薩朗は伝説に非ず 

不老の女神の夢幻境 

夢か幻か万物を織りなし 

大千世界ここより生まる 

「東方の賢聖」雪漠の文学世界が、一木一草に霊性が宿る文化伝統を持つ日本でもまっとうに紹介され評価される日の来ることを願ってやまない。 

人民中国インターネット版

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