日本との縁、中国との縁

2026-03-30 11:07:00

本誌の中国人ベテラン記者の于文と日本人専門家の植野友和が最近の話題から社会現象まで、肩の力を抜いて語り合う新コラムがスタート。駐在経験の長い二人が、人民中国雑誌社のある北京市百万荘のカフェで、コーヒー片手に中日のクロスカルチャーの視点からさまざまな話題についてトークを繰り広げます! 

日本語中国語を学んだきっかけ 

植野 今回は新企画ということで、于文さんと中国のいろいろな話題について語っていきたいのですが、まず于文さんと日本との縁を教えてください。 

于文 私は1982年生まれの「80後」で、2000年に北京の中国人民大学に入学しました。実を言うと日本語学部は第一志望ではなく、もともとは法律を勉強したかったのですが、点数が足りなかったので日本語を学ぶことになりました。小さい頃から日本のアニメや漫画には親しんでいましたが、日本語を耳にしたのは大学入学が初めてで、全く違う言語だなと思ったことをよく覚えています。 

植野 当初は積極的に日本語を選んだわけではなかったんですね。 

于文 はい。ですから最初は日本語を学ぶのがとてもつらかったです。私は北京出身なのですが、地方から来た学生は本当に勉強家でした。夜中も寮で音読の勉強をしていて、うるさくて眠れなかったほどです。そうすると気分が悪くなって、成績もなかなか伸びませんでした。途中で「もうやめよう」と思ったこともありましたが、今振り返ると、自分なりに一生懸命頑張っていたんでしょうね。2年目に精神的にリラックスしてから、成績がぐっと上がったんです。 

植野 リラックスのけつは何だったんですか? 

于文 家が学校から近かったので、寮に住むのではなく実家から通うようにしたんです。そうすると、夜はぐっすり眠れるし、落ち着いて勉強できます。勉強家のクラスメートと離れ、プレッシャーから解放されて、初めて日本語が上達した気がしました。 

植野 誰かと比べるのではなく、心を落ち着けて勉強したら成績が伸びたんですね。 

于文 他にも面白いきっかけがありました。小学校5、6年生から中学生の頃に、『聖闘士星矢』の漫画にはまっていたんですが、ある程度日本語を学んだのち、小さい頃好きだった聖闘士星矢のアニメを改めて見てみると、日本語が分かるようになっていて、これが自信につながりました。ところが、他の学生は2年生になると、日本語の勉強を怠けるようになり、たまたま私がクラスでトップの成績になったんです。それがきっかけで、3年生のとき、早稲田大学への留学のチャンスをつかめたんですよ。 

植野 ということは、大学生の頃にはすでに日本に行かれていたんですね。 

于文 そうです。そこから本当に楽しい日本語との付き合いが始まりました。日本語が新しい世界の扉を開けてくれたんですね。 

植野 では、私も中国語を学ぶようになったきっかけを話しますね。実のところ、学生時代は中国語と全く縁がありませんでした。ところが、出版業界に就職して、雑誌を作っているうちに偶然中国の業者さんと仕事をすることになり、「この人と仕事をするには中国語が必要だ」と決意したんです。そこで気づいたのは、日本人にとって中国語は漢字という共通点があり、英語よりも学びやすいということです。 

于文 それで本格的に勉強し始めたんですか? 

植野 いや、本格的と言ってもほとんど独学です。それでも中国に行く機会があって、中国語で話し掛けてみると、なんとか意思疎通できることに感動しました。それからだいぶ後になり、仕事を辞めて半年だけ上海に留学しました。そうして現在は『人民中国』で中国語に携わる仕事をしているわけで、人生とは本当に分からないものです。 

于文 なるほど。私の場合「塞翁失馬、焉知非福」(人生万事塞翁が馬)で、植野さんはまさに「無心挿柳柳成蔭」(何気なくしたことが思いがけない成果につながる)ですね。お互い意図せずに言語を学ぶようになり、新たな世界の扉を開くことができたという点で、私たちは似ている部分があると思います。 

暮らしの中で感じる中国の変化 

于文 ところで、初めて中国を訪れたときの印象はどうでしたか? 

植野 初訪中は上海万博の頃だったのですが、印象的だったのは、都市の活気です。当時の日本は「失われた20年」の最中で、それに慣れている身としては、中国のすさまじい活気やエネルギーに驚かされました。 

于文 私の場合、初めて日本に行ったのは02年でした。成田空港に着いて、電車の窓から外の風景を見て、『ちびまる子ちゃん』や『ドラえもん』の世界が本当に存在したんだと感動を受けましたね。 

植野 アニメの中で出てくる日本の町並みは、私には見慣れた風景ですが、于文さんにとっては驚きだったんですね。于さんはその後、合計何年日本で暮らしたんですか? 

于文 10年ぐらいです。最初は02年から03年に留学で1年、それから06年から10年まで人民中国雑誌社の東京支局で働いて、14年から21年の間も日本にいました。 

植野 そうすると、離れている間の中国の変化もいろいろと感じたのではないですか? 

于文 それはありますね。特に15年から17年の間に北京に戻ると、街の変化がすごくて驚きました。毎年帰るたびに周りに新しいビルが建ち、道路も広がり、迷子になるほど本当に変化が速いと思いました。 

植野 変わったと言えば、北京は空気が本当にきれいになりましたよね。 

于文 はい、かつてはPM25がひどかったんですが、次第に良くなっていって、14年に北京でAPECが開かれた頃を境に、空気が改善されました。 

植野 私も中国の大気汚染の話を聞いていたので、19年に北京に来たときには身構えていたのですが、着いてみたら「あれ、大気汚染ってもうないの?」といった感じでした。 

于文 北京だけでなく各地で環境が改善されました。おいしい空気を好きなだけ吸い、青空と星空を見て、毎日良い気分で過ごせます。今では身近で当たり前のことになりましたが、確かに感じる日常生活の中の幸せですね。中国が起こしたこの変化は、生活をより良くする、人民を中心とするという理念の表れの一つだと思います 

植野 確かに、生活環境は人々にとって本当に重要で、関心のあることですよね。 

于文 また、空気と言えば、中国の四字熟語に「彩雲追月」「日月同輝」という言葉があるんですが、当時の北京ではそのような光景が見られず、日本で初めて朝とか夕方に、夜空に浮かぶ月とそれを取り巻く彩雲、太陽と月が同時に空で輝く景色を目にすることができて、感動したことを覚えています。 

植野 今の北京ならどちらも普通に見られそうですね。 

于文 まさにそうです。また、青空の話ではもう一つ思い出深いことがあって、17年から18年の頃、福田康夫元首相を取材した際、ご自身が北京に行った際にデジタルカメラで撮った青空の写真を見せてくれました。そして、その後も福田元首相はいろいろな人に会うたびにその写真を見せて、「北京の青空はとてもきれいですよ」と伝えてくれたんですね。これは北京生まれの私にとって本当に誇りに感じたことでした。 

植野 福田元首相は両国の友好に本当に尽力されている方だと思いますし、そのことがよく伝わるエピソードですね。 

于文 私たちが携わっているのはまさに中国を日本の皆さんに紹介する仕事ですから、もっと頑張って、中国のさまざまなことを読者の方々に紹介しないといけないなと感じました。 

植野 私も一人の日本人として、中国の魅力を日本に伝えるお手伝いをしていきたいと思っています。雑誌の記事や動画を通じて、中国に対する誤解や固定観念を解いていきたいですし、『人民中国』が双方の距離を少しでも縮めるきっかけになればいいなというのが私の思いです。 

于文 そのために、まずはこのコラムを盛り上げていきましょう! 

人民中国インターネット版

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