校正とレイアウト

2023-11-30 18:30:00

劉徳有=文

中国で日本向けの雑誌を作るのに、校正の仕事も欠かせない重要な一環であろう。 

草創期の『人民中国』の校正の主力に、大連から一緒に来た李玉銀さんと、康大川氏が瀋陽で「発掘」した李薫栄さんの2人がいた。李玉銀さんは私による推薦で、もともと大連市日僑学校分校の中国語教師だった。李薫栄さんは、『民主新聞』社の井上林社長が康大川氏に「うちの社に李さんという真面目で日本語の上手な女性がいるが、必ず役に立ちますよ」と勧めたところ、即座に採用が決まったそうだ。李さんが2人もいるので、社員の間では年上の李玉銀さんを「」、年下で小柄の李薫栄さんの方を「」の愛称で呼んでいた。 

北京に赴任してきた当初、李薫栄さんは3カ月ほどタイプライターを習ってタイピストになり、日本の読者への手紙を打ったり、書類作りに専念していたが、その後まもなく校正を担当するようになった。日本語の読解力が高いため、校正の仕事の中で随時、ほかの人の気付かぬ問題を発見することが多かった。それよりも、仕事熱心で、責任感が強く、たとえ小さな記号でも何一つ見逃さなかった。 

「校正者は辺境のパトロール兵士のように、注意力を高めて観察し、悪人は一人も見逃してはならないわ。そうでなければ、職務怠慢よ!」。小李さんが口癖のように言っていたのを今でも覚えている。校正ミスの率はわずか25万分の1で、『人民中国』の校正の質の高いことは、当時の日本の出版界でも好評だった。 

だが、残念なことに30代の若さで亡くなった。真面目にコツコツと、仕事熱心で絶対に手を抜くことのなかった彼女の精神を、知人の間で誰もがしのんでいる。 

さて、次はレイアウト――割付の仕事だが、創刊以来、一番長く日本語版『人民中国』で仕事をされた安淑渠さんに登場してもらおう。 

安さんは、1952年の冬、大連から一緒に北京に来た4人のうちの一人で、幼い頃、大連で日本人経営の幼稚園、小学校、女子高等学校で勉強し、日本語ペラペラだったが、日本の敗戦後は、人民政府の下、大連日報社で記者になり、いわば正真正銘のジャーナリスト。ご本人に言わせると、「大連が解放されてからは、中国語の水準を高める一心で、日本語は全く接触していませんでした」。北京に来てから、仕事の割り振りで、思いもよらずレイアウトの仕事を任された。いわゆる「アートディレクター」である。雑誌の本文とグラビアに使う写真やカットを集めて回るいわゆる美術に関わる仕事だが、美術のビの字も知らないズブの素人の安さんにとって、全てが不慣れで、最初のうちは途方に暮れ、どうしたらよいか頭を抱える毎日だった。さぞ、辛かったに違いない。同情するよりほかになかった。幸いにも、瀋陽から来た日本人・岡田章氏がその道のベテランで、レイアウトや校正などの仕方を手を取って教えてくれ、おかげで仕事をこなしていけるようになり、間もなく独り立ちできるようになった。 

そのうちに、瀋陽の民主新聞社から、美術専門の池田寿美さんがみえ、北京の華僑学校からも美術愛好者の李玉鴻さんが入社したため、安さんもやっと「解放」され、得意の日本語を駆使して翻訳や訳文の最終審査をするようになり、また直接現場に赴き、取材をして、日本語で原稿を書いたりして、ジャーナリストとしての才能を十分に発揮し、副編集長にまで上り詰めた。 

瀋陽から少し遅れてみえた池田寿美さんは前述のように、若い頃美術を専攻し、この道の専門家で、カットや挿絵を描いたり、単行本の表紙の制作や装丁に取り組んだりして、活躍された。 

李玉鴻さんは横浜出身の華僑2世。幼い頃から絵を描くのが好きで、美的才能の持ち主だった。『人民中国』では早速、誌面のレイアウト担当となった。割付だけでなく、創意を凝らした、見た目にも楽しい民話の挿絵を描いたり、題字やカットの作成に全精魂を打ち込んだ。中でも、挿絵に定評があった。ある意味で、李さんの仕事はアートディレクターの範囲を超えたものだった。李さんは、日本育ちなので、日本と日本文化に詳しく、豊富な知識を持ち、また日本人の生活習慣と読書習慣をよく知っていたので、毎号の記事のテーマと内容を十分に把握してから仕事に取り掛かり、雑誌の内容についてもしばしば意見を出すので、同僚から、好意的に「最終審査委員」と呼ばれるほどだった。 

こんなことがあった。あるとき、『人民中国』に「」についての記事が掲載されたことがあった。下駄履きの日本人の写真入りだったが、審査の全ての段階を通り越して、レイアウトの際に、李さんはこの写真は使えないと言った。その理由を彼はこう説明した。「これは浮世絵の写真で、下駄を履いた女性は遊女だからです」。トラブルを未然に防ぐことができた。 

レイアウトは雑誌編集の最終段階の仕事なので、いつも時間との駆けくらべ。まさに戦いの中で完成させるようなものだったが、李さんは決して手を緩めることなく、常に完璧を求めて仕事をこなした。李さんがデザインした誌面は大らかでゆとりがあり、目も心も楽しませるものだった。だが、これは彼が肺気腫の苦しみを我慢して、夜を日に継いで完成させたものだと知る人はあまりいない。ある一時期、筆者は彼と同じ宿舎に住んだことがあるが、病身を押して出勤する彼の姿が痛々しかった。特に、北京の冬は寒く、呼吸困難になることが多く、それでも病苦を克服して頑張る彼の姿が忘れられない。 

くだって1984年、中日青年大交歓参加の3000人の日本青年訪中のため、『人民中国』は149㌻に及ぶ図解ガイドブック『中国の旅』を編集・出版。挿絵と写真に日本語の説明が添えられたが、日本の若者に親近感を持ってもらうよう写真説明は一字一句全て手書き。これを李さんが病を押し、時には前日酸素補給をして翌朝出勤して取り組むという状態で頑張った。このように、仕事熱心で優れた業績を残した李さんに、「全国優秀ジャーナリスト」という最高賞が授与された。不幸なことに、李さんは肺気腫の魔手から抜け出すことができず、若くして帰らぬ人となった。 

安淑渠氏(中央)と康大川(右)、汪渓の両氏(1955年春、東京にて)(写真・劉徳有氏提供)

関連文章