第2回 ミャンマーの大茶商 張彩雲とその一族の歴史(2)

2019-06-17 16:28:41

須賀努=文・写真

福建に戻った張家は

  ミャンマー、ヤンゴンで順風満帆の張彩雲に暗雲が立ち込める。1941年太平洋戦争が始まった頃、治安が乱れていた故郷安渓の茶工場が土匪の被害に遭ってしまう。そして1942年には日本軍がヤンゴンに進軍し、危険を感じた張家はこれまで築いた商売を捨て、ミャンマーから雲南経由で故郷安渓に逃げ延びることとなった。

安渓大坪 茶畑

それらの困難にもめげず、同年には廈門(アモイ)の横、漳州に張源美茶行を開設し、瞬く間に閩南地区で茶業を取り仕切り、1945年抗日戦争が終わると、廈門を本店として、香港、ヤンゴンの店も復活させて海外展開を図り、商売を広げていく。張彩雲は廈門市茶業同業公会の理事長の職に就くほどの影響力を持ち、故郷安渓では一躍有名人となっていった。困難にも耐え、いやそれをバネにして力強く生きて行く華人の底力を見る思いだ。

その故郷、安渓大坪は港町廈門から現在は車に乗れば1時間半程度で行ける場所だが、80年前は相当の山道だったようで、1日掛かりで歩いたとも聞く。大坪は100年以上前から西坪と並び、一大茶産地であり、品種で言えば毛蟹発祥の地でもある。1955年と60年、彩雲はミャンマー貿易団などの訪中団に加わり、故郷福建省に戻っている。そこで学校建設に多額の寄付をするなど、成功した華人として故郷に錦を飾った。今でも大坪の人々は彩雲の功績を語り継いでおり、老人たちはみな彼の名前を記憶しているという。

張源美は兄弟で地域を分担することになり、1948年彩雲はヤンゴンに戻り、廈門は張水存(次男の息子)らの担当となった。「1950年代前半、廈門の港近く、鎮邦路、水仙路などには大茶廠のビルが立ち並んでおり、輸出する茶葉を運び出す労働者で、それは賑やかで活気があった」と回想するのは、1954年にこの付近の茶行で働いていたという張乃英氏(1928年生まれ)。張氏はその後、その茶師としての才覚を見込まれ、漳州茶廠の製茶主任を務めた人物であり、彩雲とは同郷、安渓大坪の出身であった。

廈門 現在の鎮邦路付近

だが1950-60年代は中国でもミャンマーでも国営化の波がやってくる。廈門及び漳州の張源美は中国茶業公司と私企業の合併により、多くの大茶商と共に、その名は歴史から消えていく。1956年に作られた「公私合営廈門茶葉出口公司」は官民一体の茶業を行い、人員不足・技術不足を解消して、生産量を伸ばしていく。文化大革命」期の一時的な停滞はあったものの、廈門茶廠、州茶廠、安渓茶廠などの主力工場で、半発酵茶を作り続けた。新中国成立後、半発酵茶の需要はほぼ東南アジアの華人市場に絞られており、「僑銷茶」とも呼ばれていた。ここが1980年代、日本の烏龍茶ブームの茶葉供給源であることを知る人はそれほど多くはない。

張水存は店主から廈門茶廠の一社員となった。優秀な茶師といわれたが、息子である張一帆氏によれば「父は文革などの影響に配慮してか、張源美については何一つ話してくれなかったので、何も知らない」という。尚張水存は退職後、それまで集めた資料と知識で、福建茶業を知るバイブルともなる『中国烏龍茶』を出版することになる人物である。

紆余曲折のミャンマーで

ヤンゴンの張源美は1938年に開業。茶行のあった場所は五十尺路という名前であった。この道は一体どこにあったのか。今のミャンマーでは当然漢字表記は使われておらず、探すのに苦労したが、やはりチャイナタウンの中、それもかなり広い道、ボーウエランのことであった。その茶行のあった場所は、張彩雲の三男、張家栄が引き継だが、茶行は既になかった。今は家栄の息子が開業したプラスチック事業のオフィスとなっており、往時の面影はない。

ヤンゴン 五十尺路 張源美茶行のあった場所 

 「自分が生まれた頃(1937年)から日本軍が来るまで(1942年)が張源美茶行の最良の日々だった」と張家栄は語る。1948年ヤンゴンに戻った彩雲、幸い土地や家屋は残されており、事業拡大を目指すが、事はそう簡単ではなかった。事業の主体は「中国から茶葉を輸入、ヤンゴンで再包装して東南アジアへ再輸出」という形態だったが、1953年にミャンマー政府は海外からの茶葉輸入に制限を掛ける。その結果、張彩雲とその息子たちは、ミャンマー国内に茶葉を探し始め、北シャン州の開拓を行い、茶工場を開設するなど、懸命の努力をしていた。その頃はミャンマーでは華人だけでなく、ミャンマー人もよく茶を飲んでいた、という証言も得られている。

 東南アジア各地には華人の同郷会がある。ヤンゴンにも安渓会館があり、百尺路にある会館を探し当て訪ねてみると、最上階には安渓ゆかりの清水祖師が祭られている。彩雲はやはり地元の名士として1950-60年代に、会館理事長、名誉顧問を務めており、その資料も僅かながら残っていた。またこの周辺には往時幾つもの華人茶商が店を構えていたことが会員名簿から分かる。

ヤンゴン 安渓会館

 その60年前の住所を頼りに、いくつか訪ねてみたが、既に茶荘は一つも残っていなかった。国有化により多くのミャンマー華人がアメリカや中国へ避難したらしい。だが中国へ戻った人々は「文革」でまた苦難を味わった、との話もあり、人の運命とは、と考えてしまう。ミャンマー中華総商会を訪ねてみたが、「今や会員に茶業者は殆どいない」とあっさり言われてしまった。

 

 

 

 

 

 

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