第9回 美食の街イポー 六堡茶を商う老舗茶荘

2020-02-20 11:28:51

 須賀努=文・写真

マレーシアで美食の街として名高いイポーは、ペナン島の対岸、バターワースから車で2時間ほど行ったところにあった。ここは19世紀より、錫鉱山の開発に際して、潮州系、客家、福建系を中心に華人が大量に流れ込んだ場所として知られている。その名残か、現在も人口の約7割を華人が占めており、マレー系が主流のこの国の中では、ちょっと特別な空気が流れ、中国人などには馴染みやすい場所と言えるのではないだろうか。

 

イポーに残る街並み

だが、そんなイポーでも、半日街を歩いてみても老舗茶荘の手掛かりは全くなかった。「茶珈琲公会」があったので寄ってみたが、最近は珈琲業者しか会員はいないと言われ、ここでも茶荘の情報は得られなかった。代わりに「イポーは白珈琲発祥の地だから」と、海南人が開いた古い珈琲屋に案内され、白珈琲と名物のカヤトーストをご馳走になった。因みにイポーの食と珈琲は海南人を中心に作られていると初めて聞き、ちょっと驚く。海南チキンライスも海南島には元々なかったが、マレーシアに渡ってきた海南人が発明したのだろうか。 

 

イポー発祥 白珈琲

そしてついに老舗茶荘に辿り着いた。それは街中にひっそりと店を構えていた梁瑞生。店舗には古い茶箱が置かれ、老舗感が溢れていた。六堡茶をずっとメインに商売しているという、今のマレーシアでは珍しいお店だった。やはり華人の多いイポーならではないだろうか。三代目の易勁升さんが、六堡の濃厚な老茶を淹れながら、親切に話をしてくれた。梁瑞生は元々広東省鶴山出身の祖父、易恵才が1940年に開いた。

 

梁瑞生3代目 易勁升氏(右)

六堡茶は広東省のすぐ横、広西チワン族自治区梧州で作られる黒茶(後発酵茶)である。この茶は長い間、マレーシア華人の間で飲み継がれてきた、特別なお茶という印象がある。高温多湿のマレーシア、特に炭鉱労働者にとっては、水分補給が重要であり、病から身を守る手段としてこのお茶が飲まれた、とも伝わっている。

六堡茶は直接広東から輸送された物もあっただろうが、その多くは香港経由で渡ってきたらしい。実際梁瑞生も六堡茶を入手するのに香港茶商を経由しており、中国茶を輸入するために1960年に作られた岩渓茶行にも参加していないのは、その表れだろう。昔はマレーシアからタイやミャンマーに六堡茶が再輸出されたこともあったようだが、現在ではほぼマレーシア華人のみが飲むお茶となっているのが、特に珍しく興味深い。

 

創業80年 梁瑞生茶荘

香港で六堡茶を輸出していた茶商に聞いてみると「正直にいえば、六堡茶は辺境茶と言われる茶の一種であり、最も価格が安い部類だった。その昔マレーシアは資金力に乏しく、華人も貧しかった時代は安いお茶しか買えなかったという歴史もある」との話があった。確かに近年、マレーシアの国力が上がり、同時に価格の高いプーアル茶がブームになると、そちらが飲まれるようになってきた、という状況も起こっている。

ただ最近中国国内で、健康志向などの観点から黒茶が見直される中、希少な茶として六堡茶がクローズアップされている面がある。易さんによれば、「最近中国大陸や香港、台湾辺りから、六堡茶の老茶はないかとの問い合わせが増えており、雑誌に取材され、記事になることも増えている」といい、掲載された茶の専門誌などを見せてくれる。その内容もかなり専門的、詳細なので驚いてしまう。

易さんにイポーにあるほかの老舗茶荘の情報を聞くと、徒歩圏内にもう一つあると教えてくれたので訪ねてみた。街外れにあったその店は、瑞珍茶行。だがオーナーが不在だと言われ、残念ながら詳しい話を聞くことはできなかった。それでも非常にレトロな店内の写真撮影は許され、そこに展示されていたものから、様々なことを読み取ることはできた。

1942年創業 瑞珍茶行 

この店は、元々1918年に福建安渓で、李礼という人物が李瑞珍茶廠を開いて茶作りを始めた。そしてマレーシアでの開業は1942年とあるので、その間に何らかの事情があってここに渡って来たことになる。古いパッケージから見ると、鉄観音茶など福建茶を扱う傍ら、マレー人向けの紅茶粉の販売も以前から行っていたようだ。

そして壁に飾られていた多くの看板の中に「勝泰茶荘」「香泰茶荘」という2つの名前を見つけてびっくりした。実はこの名前は前述した1960年に設立された岩渓茶行の参加者リストにある茶荘だったのだ。今や、シンガポールでもマレーシアでも、そしてここイポーでも、誰もが知らないと言っていたこの2つの茶荘はやはり実在していたのだ。

そして安渓茶業グループともいえる、ここ瑞珍茶行と何らかの関係があったことは間違いない。場合によっては、瑞珍が作った茶葉輸入専用の会社の名前かもしれないが、その謎は残念ながら今回解けることはなかった。そして現在でも華人が多いイポーなのに、なぜ急速に茶荘は無くなったのか。それは1990年代までに多くが閉鎖された錫鉱山と関連があると思われるが、今回の旅はここまでとなった。

 

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