第22回 ベトナム ベトナムで作られた普洱茶

2021-04-29 16:14:35

須賀努=文写真

  普洱茶といえば、現在では中国雲南省で生産されている黒茶を指すが、実は以前ベトナムでも作られていたという歴史があることはあまり知られていない。『普洱茶図鑑』を見てみると、確かに1950年代、河内圓茶という名前で、ハノイ産普洱茶が掲載されている。ただこのお茶は、渋みが強く、良いお茶との評価はなかったらしい。しかしなぜハノイで普洱茶が作られるようになったのだろうか。

 

河内圓茶(普洱茶図鑑)

  清朝時代、フランスはベトナムに触手を伸ばし、中仏戦争(清仏戦争)の結果、1885年ベトナムを保護国とした。更にフランスはベトナム国境から鉱山資源の豊富な雲南を目指していくが、これは帝国主義のライバル、イギリスがビルマ方面から雲南を目指した動きに対抗してのことだったらしい。中日甲午戦争日清戦争が行われていた頃、雲南南部の茶産地思茅地区を手に入れたフランスは、普洱茶で有名な易武にも税関を作って茶に重税を課し、一時茶産量は激減したと書かれた資料もあった。

  このタイミングで雲南茶の供給が止まり、これを商機と見た中国国境のベトナム、ラオス側で、普洱茶生産が始まった。これを「北越茶」と呼び、一時は香港、マカオ、東南アジア市場を独占する勢いであったらしい。ただ資料によると、1921年に易武から国境のラオカイまで茶葉を運ぶ道が開通したとあり、北越茶の需要は落ち込んでいく。

 

 

北越茶の記録

実はフランスは1900年代にハイフォン‐ラオカイ‐昆明まで滇越鉄道という鉄道路線を整備していた。易武の茶葉はラオスのポンサリーを経て南下するもの(いわゆるゴールデントライアングルルート)と、ラオカイからこのルートを経てベトナムに向かい、さらに海外に輸出されるものがあったと聞く。だが30年代になると、中国国内の混乱もあり、フランス人による茶葉交易の道は閉ざされ、茶工場などが倒産するなど、雲南の茶産業は荒廃し、第2次世界大戦時にはベトナム自体が日本軍の支配下に入っていく。

1949年新中国成立後、ベトナム国内で普洱茶の生産が再び始まる。それが冒頭の河内圓茶などであるが、これは香港などに雲南茶があまり入らない時期に、混ぜ物として用いられたものが大半だったという。北越茶はどうしても渋みなど独特のベトナム風味があり、単体商品としては成立しなかったと、当時ハノイで茶商をしたフランス人も述べている。結局北越茶は市場を獲得することができずに衰退していき、60年代のベトナム戦争に入っていくことになる。

ベトナムの普洱茶で思い出すのは、ベトナム戦争が終わり、サイゴンもホーチミン市と名を改めた後のこと。1980年代に中国の改革開放に倣った、いわゆるドイモイ政策が始まり、外国からの投資も歓迎され始めた頃、一人の香港人がホーチミン市で普洱茶製造を指導したという。それが香港広東で「普洱熟茶の教父」とも呼ばれる盧鑄勛だった。彼は1927年広東省順徳で生まれ、抗日戦争でマカオに避難して英記茶荘で茶業を学ぶ。この時普洱熟茶製法の原型を見た。

1954年英記茶荘の娘との結婚を機に香港長洲島に移り、茶工場を立ち上げ、普洱熟茶の生産を本格的に始め、香港や東南アジア、更にはインド経由でチベットにまで茶葉を輸出した。この事実は、既に紹介した河内茶に市場を与えなかった対抗商品を作っていたのが香港だったということになる。また50年代に広東でもいわゆる広東普洱と呼ばれる茶が作られているが、普洱熟茶の発明は今では70年代の雲南ではなく、この時に始まると認知され始めている。

70年代といえば、中国では「文化大革命」中だったが、盧鑄勛は1975年にはバンコックのスクンビットで熟茶を作っていたというから驚きだ。香港経済が成長期に入り、コストが上がり、より安く作れる場所として先ずはタイを選んだという。この話は『第12回 タイバンコック建峰茶行と集友茶行』の中で、集友茶行の王さんが「華人排斥の波がタイにも訪れ、余った茶葉の使い道として、プーアル茶熟茶製造を行い、その茶を保存したのは1970年代のことだった」と語ったことに符合している。

 

盧鑄勛(左)とベトナム茶畑

更に1990年代に入ると、ベトナムのホーチミンなど数か所へ作りに行ったというのが先ほどの話だ。ベトナムも中国雲南、広西などと接しており、原料の茶葉も余っていたらしい。ベトナムは共産主義だったが、知り合いの要請で仕事を請け負った」のだという。茶作りは農業の側面が強いが、製茶業としては工業的な面が重視される。まさに日本企業がコストを追及してアジアに進出したように、盧の熟茶作りが動いていったのは、実に興味深い。

 

晩年の盧鑄勛

その歴史の生き証人と、晩年香港の長洲島で出会えたことは非常に幸運であった。だが笑顔が魅力的な盧鑄勛も昨年93歳でこの世を去ってしまったと聞いた。コロナ禍もあり、あののどかな長洲島を訪ねることも、ベトナムで彼の足跡を追うことも今は何もできないのが残念でならない。

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