天災(天灾)

2018-09-17 13:59:21

=福井ゆり子 翻訳/編集=銭海澎

 

今年はこれでもか、これでもかというくらい、日本列島は天災(てんさい)続き。地震も大雨も台風も、どれもこれもてんこ盛りで、あらゆる天災が代わる代わる襲いかかって来る。天罰(てんばつ)が下ったのか、はたまた世界の終わりが近づいたのか。そんな話が日本全国でささやかれる今日この頃だ。

今年,日本列岛接连发生天灾,有点儿令人招架不住。无论是地震、暴雨还是台风,都出奇地多,可谓所有天灾轮番袭来。这是遭遇天谴了吗?抑或是世界末日要来了?此时此刻,在日本全国各地都能听到这样的议论声。

天罰説は冗談にしても、西北にユーラシア大陸、東南に太平洋、その間に挟まれた島国という地形から、日本列島は昔から地震・台風をはじめとする自然災害が頻発する場所だった。私が北京に住んでいた時、この大きな大陸の内部にある大都市では、台風も地震もほとんど来ず、たまに大雨が降って問題になるくらいで、この国では自然はあまり脅威ではないということを実感した。「北京は風水に優れているから、災害は起きない」と断言した友人もいた。風水のおかげというとちょっと怪しくなるが、中国は日本に比べると、全体として天災から少し遠いところにいるのは、確かなのだろう。

即便天谴之说是在开玩笑,从岛国日本被西北部的欧亚大陆和东南部的太平洋夹在其中这一地形特点来看,自古以来都是地震、台风等自然灾害频发的地区。我在北京生活期间,深切感受到北京这座位于广阔大陆内部的大都市,几乎不会遭遇台风和地震的侵袭,甚至偶尔下一场暴雨就会被视为严峻的问题。在中国,自然灾害不具有特别的威胁。我的朋友中也有人断言:“北京风水好,所以不会发生天灾。”说罕有天灾是拜风水所赐可能不是特别恰当,但的确,中国和日本相比,整体而言算是远离天灾的地方。

私が日本語と中国語の翻訳に従事する中で、単に言葉が違うということ以上に、言葉によって表現される、ものの考え方の違い自体に驚くことがあるが、そのうちの一つが、中国語の“抗震救灾 抗灾”とかいう言葉だ。日本語にすれば、「地震や災害に対抗し、罹災地を救済する」「自然災害との戦いに打ち勝つ」という意味だろうか。しかし、日本人ならばこうした言い方は、まずしないだろうと私は思う。

在从事日语和汉语的翻译工作过程中,相比单纯的词汇差异,我更会为词汇所表达的(中日两国)思维方式的不同而感到震惊。比如,中文里有“抗震救灾”“抗灾胜利”的说法。如果翻译成日语,可能是“对抗地震和灾害,救助受灾地区”“在与自然灾害搏斗的过程中取得了胜利”的意思。然而,我认为日本人可能不会使用这样的说法。

 

なぜなら、日本人にとって自然災害は、「身を守る」対象ではあっても、「対抗する」とか「打ち勝つ」対象ではないからだ。自然の脅威というものは、人間にとって絶対的なものであり、人間はこれに対してなすすべがなく、身を低くしてどうにかやり過ごすしかない。自然に打ち勝つなんて、畏れ多すぎる。「天災は忘れたころにやってくる」と戒めるように、何事もない平和な日々のうちに、災害が起きても何とかなるように万全に備えをしておくというのが、われわれのできる、せめてもの対抗策なのだ。

究其原因,对于日本人而言,自然灾害即便是“保命”的对象,却不是“对抗”或者说“战胜”的对象。自然威胁对于人类而言是绝对存在的,人类对待自然威胁无计可施,只能屈从、想办法熬过去。战胜自然,听上去太令人惶恐了。正如“天灾往往在你忘记它的时候来临”所劝诫的那样,在平安无事的每一天,做好即便发生灾祸也能从容应对的万全准备,才是我们能做的,起码的对策。

そして神道の真の意味もここにある。自然界のあらゆるところにおわします「神様」を大切にお祭りすることにより、天災が起きないようにという人々の願いを受け止める。これは文明が発達した現在でも、根本のところでは全く変わっていない日本人の心情だといえる。

神道的真正意义也蕴含于此。那就是承载人们的愿望——恭恭敬敬地祭拜自然界的每一位神,从而祈祷不要发生天灾。从根本上而言,即使在文明发达的今日,日本人的这种心情也没有丝毫改变。

 

注:てんこ盛り」とは、食器などに食べ物をうず高く盛ることで、転じてものがたくさんある様子を示す言葉。この文章の場合、具体的なモノではないが、「多い」ことをユーモラスに表現するために使用。

“盛满饭”,即将食物高高地堆放在餐具中,转而表示物品的数量很多。在本文中,不是指具体的物品,而是用幽默的手法表现灾难很“多”。

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