山水画の思い出

2021-05-26 11:18:46

姚任祥=文

画境に陶酔

中国画の題材は、山や水、人物、鳥や花などの動植物と、主として建築物や車、船などを定規などで精密に描いた界画、古代の市井の民俗をうかがい知ることのできる風俗画などに大別される。自分が山の中に住んでいるせいか、この頃は山水画をますます好むようになってきた。

あの山と水の合間に漂う余白が好きで、絵に描かれた山の景色を眺めていると、画家の筆先の下で滑らかに流れる雲や水が感じられ、孤高の趣と俗世を超越した優雅な境地が伝わってくるようだ。

多くの山水画は、画布という限られた空間に巧みに構図が展開されている。その気宇壮大な情景は、他の芸術ではそうそう見られるものではない。歴史上、宋代の詩人・秦観(1049~1100年)に、山水画を愛でて病気を治したという有名な故事があるのも不思議ではないだろう。

長い間胃腸の病に悩まされていた秦観のもとに、ある日、友人の高仲が長年大切にしてきた有名な山水画を持って訪ねてきた。その絵は、唐代の有名な詩人であり画家でもあった王維(701~761年)が描いた『輞川図』だった。

高仲は秦観に、「この絵をよく見ていれば、病気はたちどころに治るだろう」と言う。半信半疑の秦観は、家族に頼んでその絵を寝室に飾らせ、暇な時や病に伏せっている時、毎日子細に絵を眺めた。この山紫水明の『輞川図』を鑑賞するたびに、秦観はその陶酔的な画境に入ったような気持ちになり、絵の中の新鮮な空気を吸い、鳥の美しいさえずりを聞くと、にわかにすがすがしい気持ちになり、元気も出てきた感じがする。

数日の「絵の中の旅」を経た秦観は食欲が増し、果たして胃腸の調子も良くなってきた。後に秦観は、『摩詰輞川図跋』という書道作品でこの体験をつづっている。

子どもの頃、私たちの家には中国の山水画が1枚飾られ、父の会社にも1枚飾られていた。私にとってこの2枚の絵は全く違いがなく、山の配置にしろ、雲や水の配置にしろ、登場人物の姿までもほとんどがそっくりに思えたので、この二つを入れ替えても多分誰も気がつかないね、と父に言ったことがある。

父は、私たち中国人の芸術は全て師の教えを受け継ぐことを第一にしており、絵を鑑賞する時にもその点を頭に入れておくことが大切だ、と教えてくれた。「中国画にはそれぞれの流派の発展の流れがあり、鑑賞する分には容易だが、批評はそう簡単なことではない」と父は説明した。

中国画の画家たちは昔、生涯ただ一人の師に付いて教えを受けた。その流派の技巧を学ぶほかに、模写によって師の度量や人格までも受け継ぐことを内なる修行の一つとしていた。自主的な創意工夫や創造はその後にくるものだった。西洋芸術は技巧のほかに、どれだけ新しいものを創造し、古きを覆すことができるかでその価値が決まる。だから、そもそも東西の流派を一緒にして、良し悪しやどちらがどちらを超えたかを論じることはできない。

 

現代中国画画家・丁傑氏の作品『天地七彩』。力強い墨で描かれた天と段々と層になっている地が互いに引き立て合っている。薄墨や淡い色彩で輪郭をぼかして描く「渲染」という中国画法を使って潤った空気を表現しており、竹の間隙からは田んぼや池、低い丘やぼんやりと続く山々が垣間見える

 

巨匠・張大千

張大千(1899~1983年)先生は、20世紀の中国画壇を代表する伝説的な巨匠であり、絵画、書道、篆刻、詩歌など幅広い分野に精通していた。1950年代、世界を巡り歩き、さまざまな芸術を生み出した大千先生は、西洋の芸術界から「東方の筆」と称えられた。その画風は、洒脱で洗練されていながら尽きない深みがあり、特に山水画では卓越した業績を上げていた。

海外での生活を経て、大千先生は精密画の画法と物事や対象の本質・精神を描く写意画の画法を融合させ、新たな芸術スタイルを切り開いた。その芸術へのアプローチは、伝統から現代へ移行しようと試みる現代画家たちにも参考にする価値があるだろう。

大千先生は天性の芸術家であると同時に、中国式庭園の造園にも精通していた。33歳の時に蘇州の名園「網師園」に1年間住んで、庭園造型から草木の一本一本まで詳細に観察したことがある。54歳で移住したブラジルでは「八徳園」を作り、69歳で米国にまた移住しては、「可以居」や「環篳庵」を作った。いずれも多くの世界的なアーティストたちが訪れる名園だ。

台北市内を流れる河川・外双渓のほとりに立つ「摩耶精舍」は、台湾の文化・芸術界の人々が最も慕う庭園でもある。幸いにも私は母と3度ほど「摩耶精舍」を訪れたことがある。

庭にある草花や珍しい石、池に泳ぐ魚、鳥やサル、バーベキューのコンロ、そして漬物のかめ……どれもが深く印象に残っている。その中でも特に印象深かったのは、大千先生は眼が悪かったために窓に移動式の虫眼鏡を取り付け、家の中からでも好きな時に庭の美しい景色を観賞できるようにしていたことだ。

大千先生はまた有名な美食家でもあり、心から客をもてなした。家で振る舞われる料理も多くの人たちの憧れであり、どの料理も趣向が凝らされ、しかも全て故事があったそうだ。

幼い私は食卓について、大人たちが古今を縦横に語り合うのを聞いていたが、あまり分からなかったので、母がかつて私に話してくれた大千先生の若い頃の逸話を思い出し、目の前にいる優しそうな顔と、胸まで伸びた銀白色の美しい顎ひげをぼんやり眺めながら独り妄想にふけっていた――大千先生のお兄さんが留守のとき、お兄さんが飼っていたトラが夜食を食べたくなって、大千先生の布団に頭を突っ込んでも怖くなかったのかしら。山賊にさらわれた後、字が書けるから「軍師」に奉られ、無理やり強盗に付いて行かされた時、隙を見て逃げようとはしなかったのかしら。婚約者が不幸にも亡くなったので髪をそってお坊さんになったけど、百日目にお兄さんに無理やり駅から連れ戻され、お坊さんを辞めるよう言われた時、望んでいたのかしら……。もちろん、これらは全て当時の私のとりとめのない想像で、口に出せるはずもなかったのだが。

大千先生は人生全ての段階で、大きな時代の鮮明な歴史を背景に、波乱万丈の生活を送ってきた。その人格は、高尚な風格と義理人情、修養を兼ね備えていた。また、芸術的な天賦の才に恵まれただけでなく、師から受け継ぐ以外にも読書や模写にいそしみ、多くの国を遍歴した。

大千先生の絵には、復古的なものもあれば創作的なものもあり、あらゆるものを広く包括して万事を理解し、伝統性と創造性の集大成となっている。特に「溌墨」(筆に墨をたっぷり含ませ濃淡を一気に描く技法)の手法によって、中国の水墨画に新たな時代を切り開いた。

なるほど、中国画の斉白石(1864~1957年)が大千先生を「一筆一筆に神と古を感じぬことはなし」と賛美し、さらに近代画家の徐悲鴻(1895~1953年)も「五百年に一人の逸才」と褒めたたえたのも、その通りと言えるだろう。

 

張大千氏の『白猿図』(新華社)

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