米(4)

2023-08-26 18:18:00

姚任祥=文

米にまつわるさまざまな話や料理、調理法などを紹介するシリーズ。4回目となる今回は、米を使った軽食の「点心」をいくつか紹介する。 

点心 

甘い「八宝飯」は、南の人も北の人も好きな点心の一つだ。見た目の華やかさと豊かな味わいを出すために、碗の底にナツメやフルーツの砂糖漬け、リュウガンなど好きな甘い食材を敷き詰め、その上に蒸したもち米を丁寧に敷く。このとき、もち米の真ん中に甘いあんを入れるための「穴」を作っておく。この穴をあんで満たし、その上に再びもち米を敷き、鍋や蒸し器に入れて蒸す。蒸し上がったら碗ごと大きめの皿などに中身をひっくり返して移し、蒸す際に使った碗を取る。すると、色鮮やかで米粒がきらきら光る八宝飯が現われ、大いに食欲がそそられる。 

「真珠丸子」(肉団子のもち米蒸し)は子どもたちが大好きな一品だ。肉だけで作った団子が硬いと気になるなら、ひき肉に豆腐やみじん切りにしたタマネギを混ぜ合わせるとよい。ひき肉をこねた後、ピンポン玉ほどの塊を手に取り団子状に丸めたら、周りにもち米をつけて鍋で蒸す。出来上がった真珠丸子は、もち米が肉の油を吸って真珠のようにきらきらと輝く。肉団子は前もって作り置きし、冷凍庫で保存しておいてもよい。食べるときに短時間でパパッと作れ、しかもちゃんとした肉料理が出来上がる。 

は、日本で正月に食べる餅とよく似ている。蒸したもち米を石臼に入れ、木の棒で手早くすりつぶし、粘り気が出てきたら、熱いうちに落花生やゴマの粉につけて食べる。客家人(中国の黄河流域から広東・広西・江西・福建・台湾などに移住した人々)は昔、野良仕事が忙しいときは、つきたての糍粑を食べて飢えをしのいだものだ。台湾の原住民族のアミ(阿美)族も糍粑を作る。しかし原料はアワで、男女が一組になって歌を歌いながら米をついていく。つき上がって、もちもち感が出てきたら、ハチミツをつけて食べる。 

湖南省西北地方の食べ方は独特で、冷めて硬くなった糍粑を短冊切りにし、皆でいろりを囲んで火にあぶって食べる。その間、火の側で絶えず糍粑をひっくり返すのが肝心。熱で糍粑の表面がふっくらと膨らんできたら穴を開け、温度が少し下がったら黒砂糖を入れて食べる。その他、豆腐乳(豆腐を発酵させた食品)を入れて食べることもある。糍粑の米のうまさと豆腐乳の塩辛い味がうまくマッチし、とてもおいしい。特に寒い冬の季節、皆で火を囲んで糍粑を焼いて食べるのは、心も体も温まる。 

縁起を担ぐ意味もある「状元糕」は、浙江省嘉興の名物だ。作り方はわりと簡単で、米を半日水に浸した後、水を加えて石臼でひいて粉にする。その後、水分を切ってからふるいにかけ、小さな桶を逆さにしたような状元帽子に似た形の木型に入れる。表面に砂糖、落花生やゴマの粉などをまぶしたら、湯を沸かした特製の蒸し器の上に載せて蒸す。木型から湯気が出始め、2030秒したら蒸し器から下ろし、型から押し出して食べる。一口サイズの状元はホクホクのうちに食べると、米の甘みが口いっぱいに広がる。 

状元には面白い由来がある。昔、一人の書生が地方からはるばる北京に上京して科挙(古代の官吏登用試験)を受けようとした。ところが、道半ばで路銀が底をついてしまった。そこでその書生は、状元餅のような米の菓子を売り始め、たっぷり稼いでから再び北京を目指した。その後、この書生は見事に首席で合格し状元になったという――。こうした話から、今は多くの受験生が合格できるよう願い、試験前に縁起を担いで状元を食べるようになった。同省の杭州名物の「定勝」も状元餅と似た意味合いがあるが、木型は梅の花の形をしている。 

四川省の成都には「蒸蒸糕」(蒸し餅)と呼ばれる面白い餅がある。原料の米は上質なもので、そこに10対1の割合でもち米を混ぜる。まず米をすりつぶして粉にし、ふるいにかけて細かい部分を選び分け、とろ火で炒める。それを再びふるいにかけたら、水を加えてよく混ぜ、木の容器に入れる。表面を平らにしてから、砂糖、あんこ、少量のラードを加えて蒸し器(せいろ)に入れる。 

蒸し上がった蒸蒸は一口サイズだ。蒸蒸を蒸すせいろも特別で、シナサワグルミやホウトウの木など、硬くて粘り気のある特殊な木材を使うのが決まりだ。しかも木材はあらかじめ天日干しにして乾燥させる必要があり、旧暦の9月まではせいろを作れない。 

中国人は中薬(中国医学の薬)を飲むとき、四季の移り変わりなどに気を配り、それぞれの季節に合った薬材を選んで使うが、せいろ作りまで季節のこだわりがあるとは驚きだった。長い歴史を持つ中華民族が、代々にわたって蓄えてきた知恵は本当に限りない。 

台湾の「肉円」(豚肉のでんぷん包み揚げ)は特別な点心だ。皮は在来の米粉とサツマイモ粉、ジャガイモ粉(片栗粉)を混ぜて作られる。表面は半透明で滑らかでプルンとしている。中の具は主に豚バラ肉、しいたけ、タケノコ。ちょっとぜいたくにむきエビを入れることもある。どれも赤タマネギと一緒に炒める。でんぷんの皮で豚肉を包んだ肉円は、台湾の彰化では油で揚げ、屏東では蒸し、台南では蒸してから揚げて食べる。まさに「所変われば品変わる」だ。食べるときは、まず肉円を切り開き、それぞれ好みで調合したタレをかけてパクチー(香菜)を少し散らす。プルプルとしてツルっと滑らかな食感と甘い味に、ほっぺたが落ちる。これは他の場所ではなかなか味わえない味だ。 


出来上がった糍粑にうれしそうなミャオ(苗)族の女性(貴州省黔東南ミャオ族トン族自治州で、vcg)

 

私は団子などを作ることが好きだ。ひいた米粉を両手でこねると、きめ細かく滑らかな感じが気持ち良い。14歳の頃だったろうか、私は友人と一緒に余という伯父の家に行き、宜興団子の作り方を習ったことがある。伯父はハンサムで、いつもぱりっとした背広を着こなし、ヘアオイルが塗られた黒髪はぴしっとセットされていた。 

伯父の奥さん(私にとっては伯母)には、団子作りを習いに行ったときに初めて会った。伯母は伯父よりも年をとっているように見えた。黒い髪には白髪が混じり、後ろで束ねてお団子にしていた。また額や目じり、手の甲にはしわがあり、七分袖の地味な布製のチャイナドレスはゆったりして、手編みの毛糸のベストを羽織っていた。 

伯母の顔立ちをよく見ると、若い頃はさぞかし大変な美人だったろう。やさしい目に眉も秀麗、澄んだ声で優しく私には分からない古里なまりで話していた。だから団子の作り方を教わるときも手振り身振りだった。団子の詳しい作り方や詳細はもう覚えていないが、だいたい2種類の米に水を加えて粉にし、鈴の型に練り上げ、具材を入れて蒸すといったところだ。しかし、伯母の姿は今でも頭の中にくっきりと残っている。 

後になって知ったのだが、二人は許婚に似た、親同士が幼女と男児の縁組を決める結婚だったので、若くして余家に嫁いだ伯母は、確かに年齢が伯父よりいくつか上だった。 

伯父の母親はできる姑だったが、伯父の父親は仕事にも就かず、毎日ぶつぶつ文句ばかり言っているような人だった。台湾に移住したばかりの頃、この父親はまだアヘンを吸っていて、家族みんなの生計は伯父の母方のおばさんに頼っていた。伯母はその人を「おばさん」と呼んでいた。 

その「おばさん」には息子が多くいて、そのうちの一人が出世し、また大変親孝行で母親の言うことを何でも聞いたそうだ。そこで「おばさん」がこの息子に、何とか父親のために仕事を探してくれと頼んだ。息子は、父親が望みばかり高くて金に目が無く、大して仕事もできないと知っていたが、母の頼みなので無理しても手配するしかなかった。しかし、そのために後々いろいろ面倒なことがいたずらに増えたという。 

余伯父とその「おばさん」の間に起きたような出来事は、旧時の中国社会では珍しくなかった。こうした人間関係は多くの小説に出てくる。3世代が一つ屋根の下に暮らし、アヘンをやめられず、孝行息子や道楽息子、兄弟間のいさかいや嫁と姑・小姑の関係、人が多ければ騒動も多く、果ては人倫に外れることも……そんな時代と家において、自我を保ち自信をもって生きていくことは、いかに大変だったことだろうか。 

二十数年後のある日、再び伯母に会った。伯母はすっかり様子が変わっていた。髪の毛は昔と同じように後ろでお団子に結んでいたが、白髪は全部黒く染め、流行のスーツを着て、ずいぶん若々しくなっていた。逆に伯父は年を取ったように見え、二人でいると、苦労の末に幸せな生活を迎えた老夫婦のような感じだった。 

余伯父は彼の父親のような怠け者ではなく、普通の課長から少しずつ昇進し、会社の副社長にまで上り詰めた。伯母といえば、辛酸をなめ尽くしたが、文句一つ言わず世話の難しい夫の両親の面倒を見て、子どもを大学まで行かせた。 

伯母は世事に通じ、察しが早く、料理上手で他では食べられないほどおいしい家庭料理を作っていた。夫の両親が亡くなってから、やっと夫である伯父と一緒に外に出掛けるようになった。自分の生活と付き合いの輪が広がり、その目にも以前にはなかった自信が満ちあふれているようだった。 

二十数年ぶりに再会したとき、伯母が私に最初に発したのは、やはり聞き慣れない古里なまりの言葉だった。だが、もう私にはその意味がよく分かっていた。「お団子はうまく作れるようになったかい?今では市場で出来合いの米粉を買えるから、生活は本当に良くなったもんだね!」 

そう。あの時代に生きた女性にとっては、何事も運命と諦めるのが美徳だった。しかし二十数年を経て、生活は確かに本当に良くなったのだ。 

関連文章