劉檸=文
没後55年を経て、谷崎潤一郎の人気は衰えを知らない。谷崎が残したおびただしい数の作品は、絶えず再版されているだけでなく、映画化、舞台化、さらには中国の伝統演劇である越劇にまでされて、今に至っている。
谷崎文学を語る上で、彼の「中国趣味」について触れないわけにはいかない。いわゆる中国趣味とは、近世から明治時期にかけての日本の知識人における漢学的教養のことではなく、近代化を実現し列強の仲間入りをした日本が「異国趣味」という主観的意識をもって改めて大陸に目を向けた時に抱いたある種の文化的「郷愁」だ。大正時代の日本の文学・芸術界で非常に流行し、谷崎も中国趣味の重要な解説者の一人だった。彼はこう書いている。「斯くの如き魅力を持つ中国趣味に対して、故郷の山河を望むような不思議なあこがれを感ずる」
このため、谷崎の生涯における2度のみの外遊は、いずれも中国と関わるものだった。
最初は1918(大正7)年で、彼は朝鮮半島を経由して中国に入り、「満州」から一路南下して北京、南京、蘇州、上海などを訪れた。帰国後には、『秦淮の夜』『蘇州紀行』などの旅行記を書いている。2度目は1926(大正15)年の上海の旅だった。ちょうどこの時期、中国では新文化運動が非常に盛んになっており、内山書店の内山完造の紹介で、谷崎は上海の新鋭作家ほとんど全てと面会し、郭沫若や田漢、欧陽予倩ら左翼作家と非常に親密な交わりを結んだ。
2度目の中国旅行記を7年前のものと比べると、「魔都体験」を語るにしろ、文壇事情や文人の女遊びについて触れるにしろ、かなり板についていて、多くの場面でくすりとさせられる。例えば租界にあるカフェで、妙齢の日本人の踊り子と出会った時のこと。彼女は『痴人の愛』のヒロインにも似た様子で、谷崎の作品をよく知っており、日本に帰る時に自分を連れて行って、映画会社の「日活」に紹介してくれとしつこく懇願した。谷崎が「全体君は日本へ帰って何をしようと言うんだね。君のような女は上海の方が面白いじゃないか」と答えると、女は弱々しく「駄目だわこんな所にいたら。……だんだん堕落するばかりだわ」と言った。谷崎は当初、魔都の華やかでぜいたくな様子に魅了され、家を持ってもいいとさえ思っていたが、結局「大いに失望して」帰り、「西洋を知るには矢張り西洋に行かなければ駄目、中国を知るには矢張り北京に行かなければ駄目である」と感じたのだった。
しかし、北京再訪は結局かなわず、帰国後は「次第に西洋式の生活に別れを告げた」のだった。ここから谷崎の創作は、中国趣味から伝統的日本の陰影の美へ回帰し始めた。しかし、中国趣味が過去のものとなってからも、彼の中国への深い思いは最後まで心から離れることはなく、中国の知識人と連絡を取り合い続けた。
香港の作家、鮑耀明は次のようなエピソードを語っている。1960年代初め、久しく「日本の味」から遠ざかっていた作家の周作人は、日本の塩せんべいや福神漬けが懐かしく、鮑氏に手に入れてくれるよう頼んだという。鮑氏は谷崎に手紙を書き、東京から送ってくれるよう依頼した。谷崎は依頼通りに調達し、中国を訪問する日中文化交流協会の中島健蔵会長に北京に届けてもらい、同時に田漢や銭稲孫への手紙も託した。もし健康の問題がなかったら、谷崎はきっともう一度北京を訪問しただろう。
越劇『春琴伝』の一場面。この作品は谷崎潤一郎の小説『春琴抄』を改編したもの(cnsphoto)
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