巴金 日本への興味と失望、再来日

2020-09-28 10:58:58

劉檸=文

巴金(1904~2005年、本名は李尭棠)は日本社会に大きな影響力を持つ中国の作家で、『滅亡』『新生』『家』などの小説は戦前に早くも日本語に翻訳され、『憩園』『寒夜』や回想録の『随想録』はいずれも日本に多くの読者を持つ。日本では巴金は大衆文学と純文学というカテゴリーを超越した大作家と認識されている。例えば、生前巴金と深く交流した作家の木下順二は次のように述べている。「例えば、わが国のいわゆる大衆文学、純文学、私小説などに分類する考え方からすると、『家』はいずれにも属さず、異なるものを同時に兼ね備えている、あるいはそれらのカテゴリーによる定義を超越した作品である」

巴金は生涯に6度日本を訪問している。最初は1934年の冬だった。日本の中国文学者、山口守は『巴金の日本滞在に関する記録(横浜時代)』という論文の中で、彼がその年の11月3日に浅間丸に乗船して上海を出発し、7日に横浜に到着したと考証している。友人の呉郎西の仲介でしばらくの間、横浜中区本牧の武田武雄宅に仮住まいした。武田は横浜高等商業学校(横浜国立大学の前身の一つ)で中国語を教えており、豊かな知識と礼儀正しさを備えた人物だった。また、中国文化にあこがれを持ち、中国人の友人も少なくなかった。30歳になる巴金はすでに文壇の新鋭だったが、30年代半ばの中日関係は変化が激しく予測できない状況だったため、やむを得ず「黎徳瑞」という偽名を使い、仕事は上海で「書店員」をしているということにした。翌年の2月下旬まで武田家に滞在し、東京神田に引っ越した。巴金は帰国後も武田一家と連絡を保ち、後に武田は上海を訪れ巴金と会っている。しかし、86年に亡くなるまで、彼は文化生活出版社の「黎徳瑞先生」が、あの有名な巴金だと知ることはなかった。

巴金は当初、日本に1年半ほど滞在し、日本語をマスターする計画だった。しかし、後にある事件から人生の軌道を変えた。80年春、巴金は中国の作家代表団を率いて訪日した際、随行した通訳の李喜儒に次のように話したという。

「私も若い頃、日本語を学ぼうとした。34年に黎徳瑞という偽名で日本に留学し、まず横浜の友人宅に滞在し、後に東京に移った。偽満州国皇帝の溥儀が東京を訪問する直前、私は警察に連行されて取り調べを受け牢屋に入れられた。その時から日本語に対する興味を失い、日本にいたくなくなった。本来は1年半勉強する計画だったが、10カ月住んだだけで帰国し、日本語もものにならなかった……」

巴金の研究家、周立民は次のように考えている。「戦争の暗雲が頭上に立ち込め、巴金は不安と憂鬱な気持ち、日本の知識人に対する失望を胸に日本を離れた」。しかし、10カ月の短い滞在は、何ももたらさなかったわけではない。彼は短編小説集『神・鬼・人』と、抗日戦争勃発後に、武田に宛てた2通の手紙の形式で発表した作品『給日本友人的信』(日本の友人への手紙)を残している。小説集に収録された作品『人』は、当初のタイトルは『東京獄中一日記』で、事件が巴金に与えたショックの深さを垣間見ることができる。

新中国成立後、巴金は61年、62年、63年、80年、84年にそれぞれ日本を訪問し、多くの友人と交流し、深い友情を育んだ。文化大革命時期の最も気持ちが沈んだ時期には、彼はしばしば日本の友人たちと過ごした日々を回想した。

 

 私はまた東京の秋田(雨雀)家で中島健藏先生と日本酒を飲み、箱根で木下順二先生とマオタイ酒を飲んだかのようで、温かく安らかな気持ちになり、やっと深い眠りについた。

 

2016年、上海図書館で行われた巴金の『随想録』完成30周年記念文献展を鑑賞する来場者(cnsphoto) 

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