古都・北京の急激な変貌

2021-02-18 16:48:01

劉徳有=文

紋黄蝶ビルの谷間を彷徨いて面喰ったか

北京の変化に 


紋黄蝶とは、筆者自身のことでもある。解放直後の北京を知っているだけに、近年の北京の変貌にはただただ驚くばかり。

中国東北地方南端の港町・アカシアの大連から首都・北京へ来たのは、今から六十数年前の1952年の冬だった。その頃の北京はまだ、昔の面影をとどめていて、街にはチンチン電車が走り、いたるところに、解放前に見られた人力車に変わる三輪車(日本でいう「輪タク」)が並び、近くを通ると、車夫から「坐車!(どうぞ、車を!)」と威勢のいい声を掛けられた。繁華街のあちこちに、北京名物の食べ物を売る屋台が並び、朝食や夜食などによく利用したものだ。たまにではあるが、街中をラクダがのたりのたり歩いている風景を見掛けることもあった。

古都・北京はその後、見る見るうちに変貌を遂げていった。まず乗り物であるが、以前、毎日の通勤・退勤はバスや自転車が主役で、中でも通勤時の自転車の洪水はすさまじく、「自転車王国」と呼ばれるほどであった。自動車は少なく、走っている車の多くは政府機関の公用車であった。

 

1980年代の北京の朝の通勤風景(新華社)

そんな時、筆者は日本に常駐するようになった。今から57年ほど前の1964年に、戦後初めて中日間に記者交換が実現された時、筆者は光明日報と新華社の記者として、東京に駐在することになった。東京に到着したのは、その年の9月29日。戦後初めて日本で行われた東京オリンピックの直前だった。

社会主義中国の首都・北京から、資本主義日本の首都・東京に来て、まずびっくりしたのは、車の多いことだった。初めて聞いた「マイカー」という言葉も大変新鮮で、中国はいつになったら、みんながマイカーを持つようになるのだろうかと思ったりした。しかし、その頃、東京の車の渋滞には閉口し、車の少ない北京の交通事情の方がよっぽどいいと思ったものだが、今はどうだろう。改革開放を経てわずか四十数年たった今日、中国の家庭で自家用車を持つものが普通になり、2台保有も珍しくない。皮肉なことだが、北京の車の渋滞は、今やはるかに東京を追い抜き、追い越しているのではないだろうか?

北京市の交通機関と言えば、地下鉄に触れないわけにはいかない。北京の地下鉄が開通したのは69年の10月。中国の都市の中で地下鉄は北京が初めてで、2008年の北京オリンピックの時には、8本(200㌔)開通したが、20年には30本(1177㌔)が運行されるようになった。

ほかに利用者の多い乗り物にバスがあるが、この4、5年間に急増したシェアリングサイクルも見逃せない。橙色や黄、青のいかにもスマートな自転車が町中を走っている。いろいろ問題も抱えているようだが、便利で経済的で健康的であることから、市民に歓迎されており、北京大学や清華大学など大学のキャンパスでも、人気を集めている。

さて次に、紋黄蝶が迷い込んだ北京の高層ビルについて見てみよう。名勝旧跡の多い北京は伝統的に平屋が多い都で、近代に入って「高層」建築が徐々に増えていったが、せいぜい10階建て程度のものだった。ところが、四十数年前の改革開放後から、北京のあちこちに超高層ビルが「雨後の竹の子」のようにニョキニョキと姿を現すようになり、セントラル・ビジネス区(CBD)などの繁華街には超高層ビルが密集し、古都・北京の姿を一変しつつある。今のところ19年にCBDに竣工した「中国尊」と呼ばれる高さ528㍍の「のっぽ」ビルが北京最高とされている。ちなみに「尊」とは、古代中国で礼拝などに使われた酒器のことで、それをかたどって建てられたので、そのように名付けられたそうだ。このCBDには、中央テレビ局が入居している、一風変わった超高層ビル――「大型パンツ」の愛称で呼ばれている――が建っているのが、特段人目を引いている。

超高層建築と言えば、筆者の住まいの近くのオリンピック公園に、2014年頃に、「五輪」をかたどった高さ246・8㍍の展望台が建ち、今では北京の一景となっている。モチーフは「生命の樹」。メインの塔を囲んで、サブの塔が四つ、登れば遠く故宮や景山、香山が望まれ、晴れた日には北京城の半分を展望することができる。夜、わが家から眺める「五輪の塔」のイルミネーションが美しい。

 

北京CBDの夜景(劉徳有氏提供)

昔から、北京は「杜の都」と言われ、槐が多かった。北京へ来た当初、よく北海公園へ行ったが、槐がこんもり茂っていたのが印象的だった。その後、緑はますます増え、北京の緑化率は50%ほどに達している。団地の「おばさんたち」が毎朝公園や空き地で体操をしたり、名物の「広場舞」と呼ばれる踊りに熱中したり、おじさんたちが京劇の歌を楽しんだりしている風景は、北京に住む人たちの心を和ませてくれる。

エコ対策では、「藍天、緑水、青山」(青空、清い川、青々とした山)のスローガンを掲げて、大気汚染や汚水の垂れ流し、乱伐などに反対する一方、植林の奨励、廃物の再利用(リサイクル)などに力を入れている。例えば、大みそかと春節に鳴らす爆竹は、昔からの風習だが、解放後、北京市は爆竹を12年間禁止した。2005年に一旦解禁したものの、18年から、第5環状線以内の都心で再び禁止。また、自動車の排気ガスを減らすため、車番の最後の数字によって、運転できる日とできない日が定められている(土、日を除く)。これらの措置によって、PM2・5がずいぶん抑えられ、青空の見える日が増えてきている。

北京オリンピックの年だったと記憶しているが、八戸在住の俳人・藤木俱子氏からいただいたお手紙に「どんどん変わって行く北京が思われ、昔が懐かしくなりました。いつかお伺いしたら、びっくりして口を開けている自分が見えるようです」と認めてあった。何だか私と重なるような気がするのだが……。

北京の目覚ましい変化が中国経済の急速な発展に支えられているのは言うまでもないが、現代化の波に押されて、古い都が次第に現代化した国際大都会へと変貌しつつあるのは、歴史の流れであろう。筆者が北京へ来た当時まだ残っていた城壁がとっくに取り払われ、街全体の古いイメージがだんだん薄れ、昔のような下町情緒が楽しめなくなったのは、正直言ってちょっぴり寂しい。しかし、活気に満ちあふれた新しい北京を、誇らしく思う今日この頃である。 

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