鵲にまつわる話

2021-07-02 11:12:26

劉徳有=文

鵲の夫婦せっせと巣をつくり

子育て励む姿いじらし

鵲といえば、中国と日本に伝わる美しい伝説を抜きにしては語れまい。7月7日の「七夕」である。中国は今でも陰暦の7月7日が七夕だが、太陽暦に換算すれば8月になる。日本は明治以来、七夕は太陽歴の7月7日になったが、地方によっては、中国と同じ8月のところもあるらしい。

 

木の枝でたわむれる鵲たち(写真・劉徳有氏提供)

中国に伝わる伝説は『牛郎と織女』といって、あらましこんな物語である——

昔、あるところに両親を亡くした男の子がいた。意地悪な嫂に追い出され、仕方なく兄さんから分けてもらった牛と一緒に暮らし、名前も村人から「牛郎」と呼ばれるようになった。ちょうどその頃、天から舞い降りた数人の仙女が近くの池で水浴びをしていた。人間の気持ちの分かる牛は牛郎に、「仙女の羽衣を手に入れ、その羽衣の主と結婚をするように」と勧める。牛郎と仙女はめでたく結ばれ、2人の子宝——男の子と女の子に恵まれる。

このことが天帝の怒りを買い、天宮のおきてに違反したかどで、王母に命じて仙女を無理やり天に連れ戻す。夫婦の仲を裂かれた牛郎は、2人の子どもを籠に入れて天秤棒で担ぎ、必死になって追い掛けるが、あと一歩というところで、王母が金のかんざしを抜き、天に向かって一線を画すと、たちまちとうとうと流れる銀河が目の前に現れ、行く手を遮られる。川を渡れない牛郎は対岸の織女の姿を眺めながら、お互い悲嘆に暮れ、涙を流す。このとき、2人の愛情に感動した無数の鵲が翼を並べて橋をつくり、牛郎と織女は「鵲の橋」の上で再会を果たす。王母も仕方なく、毎年7月7日に限り、「鵲の橋」の上での2人の再会を許すようになったとか——ざっとこんな話である。

天の川を挟んで両側にキラキラ輝く大きな二つの星が牛郎星と織女星、日本でいうところの彦星と織姫星である。七夕を迎える7月、8月頃はちょうど雨季に当たり、民間では、その日に降る雨は牛郎と織女が再会の時に流した涙であると言い伝えられている。

この伝説は、地方によって筋がいくらか異なり、中国の近辺諸国にも伝わっているようだ。七夕の伝説は、日本でも平安時代から知られており、『大和物語』に「鵲の渡せる橋」、『枕草子』に「鵲の橋」の叙述などが見える。

ところで、鵲は中国ではよく見掛けるが、日本では対馬や北九州の佐賀平野あたりに限り生息しているといわれている。体は、カラスより小さく、肩と腹部は白色で、翼や尾は黒く、強い光沢がある。尾羽は長く、二十数㌢もあろうか。鳴き声は日本人にはカチカチと聞こえるが、中国人には喳、喳、喳と聞こえ、春になると、村落や街はずれの木の上に大きな巣を作る。

筆者の住んでいる北京は緑が多く、今のアパートに移って間もなく、庭のポプラの樹に、つがいの鵲が毎日せっせと巣作りに励む様子が見られた。初めは拾ってきた小さな枯れ枝を口にくわえ、木の枝と枝の間に「棚」のようなものを組み立て、それが見る見るうちに立派な半球状の巣に早変わり(その後に見た巣は球形で、出入り口は側面に作られていた)。その時の情景を、駄作と知りながらも、かつて宋代に流行した長短句の詩——「詞」の形をまねてまとめてみた。

 

雨霽満園春色,    雨止み 庭は今が春たけなわ

玉蘭連翹誰栽?    辛夷に連翹 競って花を咲かせ

桃花甫謝李花開,  やや遅れて桃と李の花ざかり

更喜牡丹添彩。    大輪の牡丹も色添えぬ

仰見梧桐聳立,    仰げばポプラの木の枝に

一双喜鵲頻来。    つがいの鵲 忙しそう

口銜枝杈築巢材,  小枝銜えて 巣作り励み

盼望孵雛尽快!   かわいいひなが 待ち遠し

 

いつの間にか巣の中に卵が産み落とされ、ひながかえったのだろう。ある日、巣のある木の近くを通ると、チー、チー、チーというかわいらしい鳴き声が聞こえてきた。巣の中は見えないが、2羽の親鳥が交互に餌をくわえて飛んでくると、ひなたちが巣から細くも長い首を思い切り伸ばし、黄色い口を大きく開けて餌をせがむのが見えた。親鳥は口から口へとひなに餌を与えると、また遠くへ飛んで行く。

たまに、野良猫が木のそばを通ることもあるが、そんなとき、鵲は必ずけたたましく鳴き続ける。仲間に警戒するようシグナルを送っているのだろうか? それとも危険な「敵」に対する威嚇なのだろうか。あるいはこの両方か?

ひと月ほどたつと、数羽の若鳥が巣からさっそうと飛び立ち、近くのベランダに降りて仲良く並んで休む姿が見られた。なんとかわいらしいことか。

さて、餌だが、雑食性の鵲は昆虫や植物の種、カエル類を啄むが、小鳥の卵やひなを食べることもある。弱肉強食の自然界の法則で、鵲は時には小鳥やハトを捕らえて、食べてしまうことがあるかと思うと、逆にトンビの餌食になることもある。そんなわけで、鵲が益鳥かそれとも害鳥かについては、一口では言い切れない。トンビに捕らえられ、地面に押さえつけられたときなど、仲間の鵲が飛んできて、くちばしでトンビを突っつき助けようとするが、その勇ましさはともかく、無駄骨に終わるのがオチである。

ところが、中国では、鵲はめでたい鳥とされ、呼び名も「喜鵲」と「喜」の字を冠しており、鵲喜(良い前兆の意)という言葉さえあるほどだ。「喜鵲叫喳喳」といえば、「鵲の鳴き声は吉事の前触れ」の意味で、大いに喜ばれる。

そこで思い出したのは——1938年に八路軍が山西省襄垣県のとある村に駐屯したときのこと。一人の未成年の八路軍兵士が村のわんぱく小僧と戯れ、竿で鵲の巣をめちゃめちゃに壊してしまった。そのことを知った司令官の彭徳懐氏は、いたずらをした兵士に対し諄々と諭した。

「村のお百姓さんたちの間に、『鵲が巣を作れば、春夏秋冬おめでたばかり』とか『鵲が鳴けば、お金と身内がやって来る』ということわざがあり、鵲は下へも置かぬほどとても大事にされている。われわれ八路軍はどこへ行っても人民大衆の風俗や習慣を重んじなければならない。八路軍には規律というものがあり、規律は絶対に守らなきゃならん」

この逸話は、今では美談として言い伝えられている。

 

1930年代の彭徳懐氏(写真・劉徳有氏提供)

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