王震氏の日本農業視察

2018-09-28 16:37:36

文=劉徳有

 王震氏といえば、知る人ぞ知る、抗日戦争を戦った八路軍の名将。戦後、中国政府の農墾部長として農業代表団を引率して日本を訪問したのは、1957年11月のことだった。訪日については、毛主席の支持と許可を得たのだと、出発前、雑談の際に、王氏自らが通訳担当の私に明かしてくれた。

 「その年に、鉄道敷設のため福建省に赴いたが、北京に帰る途中、杭州に立ち寄った。ちょうど党中央連絡部の王稼祥氏が日本共産党の代表団を伴って杭州を訪れていて、広州で、王稼祥氏と廖承志氏の話し合いの席にたまたま立ち会ったが、今後日本人民との交流を促進したいという話になり、『日本を訪問してみたらどうか』と勧められた。かつて軍人だった自分が日本に行っても大丈夫かと聞いたが、『それは日本でも周知のことだ』という返事が返ってきた。その頃、ちょうど毛主席が広州にいたので、王稼祥氏と廖氏は毛主席にその話をしたらしい。毛主席がわざわざ車を出してくれて『日本に行くそうだが、それは良いことだ』と言ってくれた。その後、陳雲氏も『中国は耕地が少ない割に、人口が多い。日本も人口は多いが、水稲の生産高が高く、水稲栽培の経験も豊富なので行って見て勉強したほうが良い』と応援してくれた」

 2カ月近くの日本訪問の中で、代表団は農村、牧場などに足を運び、農民と懇談し、技術員の説明を聞いた。しかし、農民と接触している間、県庁職員もずっと傍らにいたので、訪問される側にどこかぎこちないところがあったのも事実であった。

 ある日、愛知県のある養鶏農家を訪ねたときのことである。畳の部屋に案内され、王震氏は庭にいる作業服を着た青年に目を留め、声を掛けて自分のそばに座らせた。これは予定外だったので県庁職員は緊張し、困惑気味の様子だった。王震団長が青年に「この家の家族の一員かね」と聞くと、青年は、山口県から農作業の勉強と手伝いに来ているのです、と答えた。王団長は喜び、親切に青年の手を握って話をした。青年の手にたくさんのタコがあるのを見て、「これこそが農民の手です。頑張ってください」と言った。さっきまで緊張していた県庁職員も農家の方も、感動して涙ぐみ、勤労者出身の王震氏にして、働く人たちの気持ちが分かるのだと感激の面持ちだった。

 農業視察の中で、王震氏が最も興味を示したものは、小型トラクターだった。この小型農機は中国南方の土地に合うと考え、日本の技術者に操作して見せてもらった後、自らも操作してみた。当時の中国には、まだこのようなトラクターを生産する能力がなかった。そこで、王震氏は即断して1台購入し持ち帰ることにした。このほかに、農業用プラスチックフィルムも非常にメリットがあると判断し、買うことにした。

 東北地方と北海道を訪問したときに、王震氏は水稲の品種に特に注目した。王震氏が中国の寒冷地域に合う水稲の品種を探しているのではないかと感じた。王震氏は生産高だけではなく、倒伏しないかどうか、耐寒の性質はどうか、などについても真剣に質問した。こうして代表団は日本の友人が推薦してくれた優良品種を持ち帰った。後に、中国で有名になった水稲品種「農墾5号」は、日本の優秀な品種を使って育成したものである。

 帰国後、王震氏は毛主席に報告に行った。30分程度で報告を済ませようと思っていたが、毛主席が細かいところまで質問したため、かなり長引いたという。

 「毛主席は、日本の農家の様子はどうか、家に何があるか、と詳しく聞かれた。哲学の問題でも理論的な問題でもないので、自分の目で見たことを全て話した。養鶏農家は一家で何百羽もの鶏を飼っている(当時では大変なことだった)と話すと、毛主席は非常に感心した様子だったよ」と王震氏は言った。また、陳雲氏も「日本での買い物は大いに役立った」と言ったそうだ。

 このときの日本訪問で、王震氏の行く先々に随行してくださった方の中に『朝日新聞』論説委員の団野信夫氏がいた。団野さんは長年農業に関する取材に携わっていて、日本の農業事情に詳しいだけでなく農林省のこともよく知っていた。当時米国政府は中国を封じ込め、岸内閣も中国敵視政策をとっていたので、中日両国政府間の接触は全くなかった。そのような状況の中で、団野さんは代表団の訪日に大きな力になってくださったばかりでなく、氏をよく知る農林省のある次官も陰ながら協力してくれた。

 団野さんは王震氏に言ったことがある。

 「私はブルジョアジーのジャーナリストで、休暇を取って王先生と代表団に随行させていただいています。これは、初めて共産主義者に接し、初めて中国共産党の大物と接する機会です。共産主義を理解することはできますが、共産党員ではありません。今度の出会いは今後の私の人生を決定したと思います」

 熱心で誠実な団野さんは、王震氏と日々を共にするうちに深い友情が芽生え、王震氏のことを心から尊敬するようになった。あるとき、団野さんは王氏に言った。

 「先生は作戦上手で世に知られていますが、先生の名前が良いですね。天下を震撼させる王者なのですね」

 王震氏は、「団野さんの名前もいいよ。団野は、農民を団結させ、そして、信夫は信頼のできる男…」と応じた。

 「共産党の王先生と出会い、多くのことを教えてもらいました。人生は本当に不思議なものですね」と、団野さんは言ったことがある。

 王震氏も「これからは団野さんのことをずっと忘れられないでしょう。団野さんと一緒にいるといつも素直でいられる。運よく日本で良師益友と出会い、日本についていろいろと紹介してもらった」と心から感謝され、亡くなるまで、海を越えて育まれた友情が続いた。

 

 

関連文章