大同 石窟に刻まれた融合の歴史海を越えた発祥の地

2023-03-10 16:01:00

李一凡=文

李昀=イラスト

山西省大同市といえば、孔子が提起した古代中国社会の最終目標である「天下大同」を連想することが多い。しかし、想像とは裏腹に、2300年余りの大同の歴史は戦火と波乱に満ちていた。同地は年間降水量400の境界線に位置しているため、北の遊牧文明と南の農耕文明がしばしばここで衝突し、何千もの戦争の記録が歴史書に残された。全く性質の異なる二つの文明が血と火の中で徐々に溶け合い、豊かな内容を持つさまざまな文化遺産を生み出した。 

 

多文化融合で生まれた文化遺産 

中国北部から台頭した鮮卑族拓跋部は398年、五胡十六国の乱世の中、中原に南下し、平城(今の大同)に遷都し、国号を正式に「魏」とした(歴史上は「北魏」〈386~534年〉と呼ばれる)。こうして、北方の遊牧民族によって建てられたこの国は繁栄の一途をたどり、結局、すさまじい勢いで中国北部を統一した。大同は、北魏の首都、また中国北部の政治、軍事、文化の中心地として、歴史上で最も輝かしい時期を迎えた。 

洛陽に遷都するまで、大同は96年間にわたって北魏の首都だった。この約1世紀の間、胡文化と漢文化がここで融合し、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の世界遺産に登録された雲岡石窟をはじめとする多くの驚くべき歴史的遺跡が残された。 


494年に完成した雲岡石窟第6窟。雲岡石窟の中で最も規模が大きく、最も内容が豊富で、最も彫刻が精緻な石窟であり、保存状態が最も良い石窟の一つでもある(vcg) 

仏教芸術の傑作 

雲岡石窟は大同の中心地から西へ約16、武州山の南麓に位置する。武州山の最高地点が雲岡と呼ばれることからその名が付けられた。石窟は東西約1にわたり、主な洞窟が45カ所、仏像が5万9000体以上現存している。その中で最大の仏像は高さ17もあり、最小のはわずか2しかない。雲岡石窟は5世紀の彫刻芸術の最高峰とされ、甘粛省敦煌の莫高窟、河南省洛陽の龍門石窟と並んで、中国の三大石窟の一つに数えられている。 

北魏の時代、ほとんどの皇帝は仏教を信奉した。彼らの主導で仏塔や寺院が多く建てられ、僧侶の数も多かった。だが、それは徴兵を妨げ、統治の安定にマイナス影響をもたらすこともあった。北魏の太武帝(在位423~452年)は、寺院や仏像の破壊、経典の焼却を命じたが、これは中国史上初の廃仏(仏教弾圧)となった。その後、文成帝(在位452~465年)が即位すると、仏教復興の詔を出し、高僧曇曜の進言を受け、皇室の力で雲岡石窟の造営を開始した。雲岡石窟の主な仏像は460年から524年までの64年間に造られた。石窟の形や彫像の内容、様式の変化から、早期、中期、後期の3段階に分けられる。 

早期は「曇曜五窟」と称される現存の第16窟から第20窟までだ。この五窟は北魏最初の5人の皇帝をそれぞれ代表し、造営の幕を開けた。この時期の仏像のテーマは三世仏(過去仏、現在仏、未来仏)で、大きな像、ふっくらとした顔立ち、高い鼻、深い目が特徴的で、強健かつ素朴な美しさを示している。その彫刻技術は漢の伝統を継承し、発展させると同時に、ガンダーラ、マトゥラー芸術の精髄を取り入れているため、異国情緒が特に際立っている。中でも第20窟の仏像は初代皇帝道武帝を模して造られた釈迦牟尼像だ。その前壁が地震などで崩れ、洞窟全体が露出し、迫力のある「露天大仏」となり、雲岡石窟のシンボルともなった。 

中期は孝文帝の太和年間(477~499年)に造られた石窟だ。これは北魏の最も安定繁栄した時期で、大きな石窟と仏像が華麗に細かく彫刻され、仏像は丸顔で、彫像のテーマは多様なものとなった。漢化政策の実施に伴い、漢民族の服装や建築様式など、漢民族の要素が多く取り入れられ、東西の建築様式が融合し、石窟芸術の中国化が始まった。「音楽窟」と呼ばれる第12窟は、この時期の代表例で、釈迦牟尼の説法中に伎楽天が空を飛んで、踊ったり楽器を奏でたりする様子が刻まれている。窟内には47の伎楽天と44の楽器が刻まれ、東西文化融合の時期における、さまざまな楽器と踊りの様式がそのまま保存されており、芸術的価値が極めて高い。 

後期は494年に北魏が洛陽に遷都した後の時期だ。大規模な石窟の造営はなくなったものの、彫像のブームは中下層階級に広まり、彼らは雲岡で中小規模の石窟を多く造った。この時期の仏像は細身で、首が長く肩幅が狭い「秀骨清像」のスタイルで、これは北魏後期の仏像の特徴となった。この特徴は洛陽の龍門石窟の北魏窟にも見られ、中国の石窟寺院芸術の発展に大きな影響を与えた。 

中国の他の石窟寺院と比べると、雲岡石窟は当時の西方の影響を強く受けており、中後期の石窟と彫像は中華仏教芸術の現地化、世俗化、民族化という新たなスタイルを生み出した。これは中華美術の宝庫の中でも唯一無二の存在といえる。 


「音楽窟」と呼ばれる雲岡石窟第12窟。空を飛ぶ伎楽天が描かれている(vcg)

古い石窟を守る若い「医者」 

1500年以上の風雨にさらされてきた雲岡石窟の彫像は日々風化が進んでいる。その保護を強化するため、関連当局は1970年代から雲岡石窟に対し大規模な保護活動を行ってきた。数十年にわたる絶え間ない努力の結果、雲岡石窟の状態はかなり改善された。近年では、デジタル技術を駆使し、文化財保護チームの仕事は緊急保護から予防的研究的な保護へと重点をシフトしている。 

現在、古い雲岡石窟を守っているのは「80後(1980年代生まれ)」「90後(1990年代生まれ)」を主とする活力にあふれる若者たちだ。若い「文化財のお医者さん」たちは来る日も来る日も石窟に「診断」と「治療」を行い、そのおかげで、風雨にさらされてきた石窟は徐々に「若返り」つつある。 

古い石窟に活力を吹き込むため、若者たちは高精度の測量製図技術、3Dレーザースキャン技術などの科学技術を駆使し、石窟の構造や色彩などの情報を収集し、雲岡石窟のデジタルアーカイブを作成し、石窟の今後の保護や研究のための基礎を築いている。 

文化財修復スタッフの孫波さんは次のように話す。「時には、自分が石窟を造る職人だったのではないかと思うことがあります。私と同僚たちは雲岡石窟と文化財修復が好きで、石窟を『治療』し『若返り』させることが私たちの責務であり、使命でもあります。より多くの人がこのチームに参加し、石窟の裏にある貴重な歴史を一緒に守ってくれることを願っています」 

断崖絶壁に懸かる寺院 

雲岡石窟が多文化融合の始まりだとすれば、懸空寺は大同の多文化共生という気質を最も鮮明に体現しているといえる。 

北魏の末期に造営された懸空寺は大同市渾源県にあり、五岳の一つである恒山の翠屏峰の絶壁の間に建てられ、現在は地上約50に位置する。懸空寺はもともと玄空閣と呼ばれ、「玄」は道教、「空」は仏教の教義に由来する。中国語では「玄」と「懸」の発音が同じで、断崖の途中にぶら下がるように建てられていることから現在の名に改められた。 

懸空寺の特徴は、まずその建築構造の絶妙さにある。重さ数十の3階建ての寺はまるで宙に浮いているかのごとく、わずか数十本の柱に支えられているように見えるが、実は寺を主に支えているのはその柱ではなく、岩に深く差し込まれた横木だ。北魏時代の職人たちは、粗末な道具を使って岩肌に深さ2以上の穴を開け、そこに直径50の横木を27本差し込んだ。横木はほぼ石の穴の中にあり、1しか露出しないので、てこの原理で懸空寺のほとんどの重さを支えている。立地の面から見ると、懸空寺は実は断崖の途中の「盆地」に建てられており、上に突き出た岩が傘の役目を果たし、寺を雨から守っている。高い場所にあるため、洪水が起こっても浸水することはない。また、周りの山々も日差しを遮る役割を果たしている。これも懸空寺がよく保存されてきた理由の一つである。 

懸空寺は2010年、その巧みな建築構造により米誌『タイム』で「世界で最も危険な建物トップ10」に選ばれた。言い伝えによると、詩仙と称される唐の詩人李白は懸空寺を訪れた際、岩壁に「壮観」と書き記したが、この二字だけではその素晴らしさを表現できないと思い、「壮」の横に力強く点を付けたという。 

懸空寺のもう一つの特徴は、寺院において仏教と道教、儒教の三つが一体化していることだ。寺には大小40の部屋があり、仏像が安置される大雄宝殿もあれば、道教における八仙の一人である呂洞賓を祭る純陽宮もある。最高所の三教殿には三開祖の孔子、老子、釈迦牟尼の塑像が並んでいる。ここには信仰の対立や教義の争いはなく、「三教合一」と調和融合のみがある。 


世界で愛される刀削麺

山西省に行ったことがなくても、アニメ『中華一番!』のキャラクター「鋼棍のシェル」を見たことがあれば、山西省の人々の麺食(小麦粉で作った食品)への愛情を感じることができるだろう。山西省は「麺食の故郷」と呼ばれ、記録にある麺食だけでも200種類以上と非常に多い。中でも最も人気のあるのは間違いなく刀削麺で、刀削麺といえば大同刀削麺が最も有名だ。 

麺界の絶対王者 

大同では刀削麺は食卓に欠かせないもので、一日三食刀削麺を食べても飽きない大同の人もいる。一見地味で、一杯わずか10元ほどの刀削麺だが、毎日毎日大同の人々の胃袋を癒やしている。安くておいしいという理由で、大同刀削麺は中国各地だけでなく、すでに海を越え、日本の街角でも見掛けるようになった。 

刀削麺は元代に漢人の包丁が没収され、代わりに薄い鉄片で生地を削って麺を作ったことに由来するといわれる。どの刀削麺の店に行っても、料理人が小麦粉をこねた生地の塊を木の板に載せ、右手で専用の薄い包丁を持ち、沸騰する鍋に向かって素早い動作で腕を振る姿が見られる。中心部はやや厚く、両端は薄い麺がヤナギの葉か雪のひとひらのように鍋の湯の中に飛んでいく。現在、麺を削ることは単なる技術ではなく、パフォーマンスとして多くの観光客を楽しませている。 

本場の大同刀削麺は麺の味を重視するが、だからといって澄んだスープに数本の麺が浮いているなどということはない。麺にかける各店秘伝のタレこそが刀削麺の魂だ。牛肉や豚肉、トマト卵炒めなどさまざまな味のタレに煮込み団子や煮込み卵、揚げ豆腐などをトッピングし、さらに香菜(パクチー)のみじん切りと本場の山西黒酢を入れて混ぜる。それらはツルツルシコシコの麺とよく合い、絶妙な味となって多くの人を魅了する。 


大同刀削麺(vcg)

見た目もおいしい百花焼売 

シューマイも大同の有名な麺食だ。「鋼棍のシェル」は点心全般を得意とし、特に焼売にかけては大陸一を自負しているが、大同で修業したのかもしれない。 

大同には菜葉焼売や水晶焼売、翡翠焼売など、さまざまな種類の焼売があるが、中でも500年の歴史を持つ老舗鳳臨閣の百花焼売が最も人気だ。 

百花焼売には次のような逸話がある。1900年、八カ国連合軍が北京に侵攻したとき、慈禧太后(西太后)と光緒帝は西へ逃走し、大同に着いた。地元の官吏は丁寧にもてなし、鳳臨閣の料理人は伝統的な焼売をもとに工夫を凝らし、透明で薄い皮で鶏、鴨、魚、エビ、牛、羊など9種類の具を包み、上端にボタン、ハスの花、シャクヤク、秋菊など9種類の花をこねて作り、蒸し上げた。 

百花焼売は味が豊富で食べ飽きることなく、見た目もユニークなことから、慈禧太后はそれを高く評価し、「鳳臨焼売」と揮毫した。以来、鳳臨閣の百花焼売は「天下第一籠」と呼ばれるようになった。 

大同を代表する老舗「鳳臨閣」は諸般の事情で一時閉店しているが、幸いにもそのチームと料理は「喜晋道」という店に受け継がれた。100年以上の歴史を持つ百花焼売は、今でも地元の人に愛されており、また大同を訪れる観光客が必ず食べる一品でもある。 

 

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