絶景を秘めた天山の麓で リンゴと羊肉料理に舌鼓

2026-02-06 16:41:00

李家祺=文 VCG=写真

昨年1月号の「美しい中国」では、新疆ウイグル自治区カシュガル(喀什)地区の風土と文化が紹介された。今回は、カシュガルの北に隣接するアクス(阿克蘇)地区(以下、アクス)へと足を運んでみよう。 

アクスは総面積が125500平方、7県2市を管轄し、地区政府所在地はアクス市だ。アクスは昔、古代シルクロードの要衝であり、東西交易と文化交流を結び付ける地だった。連綿と続く天山の山並みと、雪解け水に潤されたオアシス、果てしなく広いタリム盆地が織りなす雄大な風景が今日まで続き、数千年にわたって積み重ねられた文化は新たな輝きを放っている。  

変化に富んだ自然環境 

アクスは、天山の南麓とタリム盆地北縁との間に位置する。全長約1100の天山南麓は、まるで巨大な銀の龍がアクスの北側に横たわるかのようで、北からの寒気を遮る天然の壁になると同時に、アクスの雄大な景色を生み出した。 

氷河と峡谷が織りなす叙事詩 

天山トムール(托木爾)観光エリアはアクス地区のオンスー(温宿)県に位置し、標高7443の天山第一の高峰トムール峰の南麓に広がる、総面積752平方のエリアである。2013年、トムール峰を中心とする「新疆天山」が世界遺産に登録された。 

中国最大級の「現代でも氷河が活動している地域」の一つとして知られるトムール峰周辺では、氷河の融解水と内外力の地質作用によって多くの奇観が生み出された。大地にちりばめられた宝石のように輝く氷河湖、深さ数百にも達する神秘的な亀裂、アクアマリン色の氷の洞窟やさまざまな形の「キノコ氷」など、幻想的な趣に満ちている。氷層の下では「氷下河」がさらさらと流れ、大自然の独特の調べを奏でている。 

氷河の奇観に加え、観光エリア内のトムール大峡谷は地質愛好家にとってまさに「楽園」である。全長約50、両側の山体は赤い丹霞たんか地形が主で、数億年にわたる風雨や河川による侵食で、変わった地形が作られた。頭をもたげるオスの獅子のように見えたり、そびえる城郭のように見えたり、あるいは積み重ねた本のように見えたり、形はさまざまだ。峡谷を歩けば、足元には細かな赤砂が広がり、両脇には切り立った岩壁。峡間から太陽光が差し込み、光と影が織りなす変化を楽しむことができる。 

一般の旅人がその全貌を一望することはほとんどできないが、トムール峰に広がる垂直分布帯は、地球上のさまざまな自然環境を凝縮した「生態の設計図」のようだ。 

標高4000以上に広がる寒冷風化帯、3000付近の高山草原、2000以下にあるトウヒ林など、それぞれの帯域に大自然の秘密が宿っている。寒冷風化帯では、凍結作用によって石海が作り上げられ、高山草原では雪蓮(スノーロータス)が表面の「毛状突起」(トライコーム)で寒さや強い紫外線から自身を守る。また、トウヒ林の年輪密度の変化は、1460~1860年の「小氷期」の低温を記録し、歴史研究の貴重な資料となっている。 

そのほか、雪線の位置変化は古代シルクロードの隆盛と衰退とも密接な関係がある。唐代(618~907年)の温暖期には雪線が高くなり、商道の通行期間が長くなった。一方、明(1368~1644年)の末期に入ってからは、小氷期で雪線が低くなり、一部の駅路が廃棄されるようになった。雪線の位置も、歴史の変遷を物語っている。 

荒漠から果樹園への大変化 

中国で「アクス」と言えば、シャリッとしてジューシーな甘みで知られる「アクス冰糖心ビン タン シンリンゴ」を思い浮かべる人が多いだろう。 

初冬、収穫の終盤を迎えたアクス市ココヤ(柯柯牙)街道大楡樹コミュニティー(社区)のリンゴ園では、リンゴが枝からぶら下がり、空気は甘い香りで満ちていた。農家の人々は園内を行き交い、収穫選別運搬に忙しく、収穫の喜びを顔に浮かべていた。 

アクスには環タリム盆地特色果樹基地が計450万ムー(約30)あり、新疆果樹栽培面積の4分の1を占める。昨年の生産量は300万、生産額は200億元に達し、果樹産業は脱貧困農村振興の柱の一つとなった。 

昼夜の温度差が大きいというのは好条件だが、ここの果樹産業の発展は何よりも数十年続けてきた緑化行動の積み重ねの成果である。 

40年前にさかのぼると、タリム盆地の中のタクラマカン砂漠は常に、この地を脅かしていた。アクス市南部の砂漠が市街地から6ほどしか離れておらず、さらに年間5の速度で迫ってきていた。 

1986年、ココヤ砂漠緑化プロジェクトが始まり、防護林が植えられるようになった。90年以降は「地元の人々に先に土地を与え農業を始めさせ、収穫後、土地の請負金(7)を徴収する。水道電気代は全て免除」という政策が実施された。92年にふじリンゴを導入。それ以降、天山の雪解け水で育ったアクスリンゴは全国で有名になり、アクスも「リンゴの里」となった。 

その上、生態改善によって連鎖効果が生まれた。年間降水量は60から120へ、黄砂は100日余りから30日前後まで減り、森林被覆率は335%から904%へ、人工林面積は70万4100ムー(約4万6940)から523万5500ムー(34万9000)へ、湿地面積は234万4200ムー(約15万6280)に達し、野生動物は270種以上、野生植物は520種以上まで増加した。人と自然が調和して共生する絵巻が広がっている。 

1000年を超える文明の楽章 

アクス地区の最西北端にあるクチャ(庫車)市。クチャという名が定着したのは18世紀になってからのこと。それ以前は1000年以上にわたり、「亀茲きじ」と呼ばれていた。この名に関する最古の記録は1世紀から2世紀に編さんされた『漢書』の中にある。意味について定説はないが、「要となる道」「都市」などを指すと考えられている。 

古代、亀茲は東西交通の要衝であり、シルクロード北道の必経の地であった。玄奘三蔵は仏典を求める旅の中で、ここを経由してインドへ向かった。 

ここはかつて、中国、ペルシャ、インド、ギリシャローマ文明が交差する地であり、多文明の交流と融合の中で、独自の亀茲文化が生まれた。クチャから西へ約70の場所には、中国に現存する石窟のうちで最も早期に開削され、最も西に位置する仏教石窟群「キジル石窟(克孜爾石窟)」がある。内部の壁画には亀茲の仏教芸術や商売人の往来の様子が描かれ、玄奘三蔵が記した「管弦伎楽、特善諸国(音楽や舞踊が他の国より抜きん出る)」という亀茲楽舞の繁栄のありさまが刻まれている。 

亀茲楽舞は、曲楽器舞踊音楽理論を含む総称で、その起源は漢代(紀元前202年~220年)にまでさかのぼる。亀茲の文化と同じく、多文明が混在融合する中で誕生したものであり、古代インドの楽舞「天竺てんじく楽」の影響のほか、ギリシャ西アジア中央アジア中原の漢文化からもさまざまな要素を取り入れ、独自の発展を経て、南北朝時代(420~589年)前後に多元的で独特な芸術様式を確立した。 

数千年前の画師たちは、亀茲楽舞の躍動の瞬間を石窟の壁に刻んだ。魏晋南北朝時代に開削されたキジル石窟第38窟は「音楽家洞」と呼ばれ、亀茲楽舞を記録した壁画が多い。洞内の東西両壁にはそれぞれ長さ3、高さ056の天宮伎楽図がある。一つの図は七つの場面で構成されており、各場面には男女一対の伎楽天人(仏教芸術によく登場する、音楽や踊りを担当する神様)が描かれている。肌の色は一人が白、もう一人が褐色で、合計で28体になる。竪箜篌たてくご(撥弦楽器)や五弦琵琶を奏でたり、宝鏡を手に持ったり、瓔珞ようらく(宝石銀などで作られた装身具)を振り回したり、花盤をささげたり、天人たちは楽器を奏でながら歌い踊り、非常ににぎやかな光景だ。 

音楽と舞踊を愛する伝統は、クチャで一度たりとも絶えたことがない。今日のクチャも歌舞の故郷として知られており、行事や結婚式、出産、節気、収穫など、人生のあらゆる喜ばしい節目には必ず、「マシラップ(麦西熱甫)」が催される。これは、音楽舞踊遊びを大勢の人で楽しむ伝統的なイベント。楽師は手鼓を打ち、ドタールやタンブール(いずれもウイグル族の撥弦楽器)を弾き、昔から伝わってきた歌を歌い、他の人は次々と踊りに加わる形である。 

クチャ旧市街に位置する昔風の「亀茲小巷」では、「一号茶館」という新疆ミルクティーの店に、ちょうど数人のアワ(年配女性に対する地元の呼び方)が集まっていた。ほぼ毎日午前にここに来るという。手鼓を打ったり、楽器を弾いたり、歌ったりして、気持ちが弾めば踊り始める。喉が渇きお腹が空いたら店のオーナーにミルクティーとナン(発酵後窯焼きされるフラットブレッド)を頼んで一緒に味わう。この「オドルシ(朶魯希)」と呼ばれる民間の音楽パーティーは、クチャでは日常の風景である。 

音楽と歌声が溶け合い、舞踊と笑顔が響き合う。壁画の伎楽天人の姿がふと、目の前の光景と重なり、昔と今の琴線が、そっと共鳴するかのようだった。 

雪山が育んだ独特な食材

高山の雪解け水と乾燥した気候が不思議な調和を見せ、アクスで多くの独特な食材を育んだ。羊肉料理がその代表格である。アクスの羊は長年、アルカリ性土壌の牧草を食べて育ってきたため、肉質がきめ細かくて柔らかく、臭みがほとんどない。 

ウシュ(烏什)県の臻丹山口で、キルギス(柯爾克孜)族の牧民のスリタントフティさん(58)が、羊肉の煮込みを作っていた。これは、アクスの羊肉の旨味を最大限に引き出す定番の調理法だ。 

その場で処理した羊の肉から数枚切り取って、大きな鍋に入れる。クマラク(庫瑪拉克)河でくんだ雪解け水を加え、調味料を一切使わず、強火で煮立ててから弱火に転じ、ゆっくりと煮込んでいく。辺境の牧民は自然のリズムと共に生きてきた。 

極めて簡素な調理法が羊肉の本来のうまみを閉じ込める。コトコトという音に伴って、濃厚な香りがフェルトテント(遊牧民族の移動式住居の一種)に漂った。約2時間後、スリタントフティさんがようやくふたを開けた。肉は白く柔らかく、澄んだスープに淡い黄金色の脂が浮かんでいた。 

脂と赤身がほどよく交じる羊肉を口に入れた瞬間、純粋なうまみが広がり、草原の香りと雪山の清らかさがかすかに感じられた。温かなゆで汁を一杯飲めば、胸の奥まで温まり、かすかな汗がにじみ、寒気が消えていく。辺境では「牧畜の地域で酒を飲むと、いつもよりたくさん飲める」と言われる。羊肉スープが胃を温め、アルコールの回りを和らげるからだ。 

古代、草と水を追って移動する遊牧民にとって、遠くまでの移動や長く厳しい冬を生き抜くためには、新鮮な肉だけに頼ってエネルギーを得ることなどできなかった。そこで「風干肉(干し肉)」が生まれ、代々受け継がれてきた。 

スリタントフティさんのもう一軒の暖炉がついていないテントには、風干肉がずらりとつるされていた。この食文化は800年以上前までさかのぼることができる。伝説では、チンギスハンの西征のとき、軍の補給負担を軽減するため牛羊肉を乾燥させたことに始まると言われる。ゆえに「チンギスハンの行軍食」とも呼ばれる。 

風干肉を作るには、気候日照気温などさまざまな条件が関わり、牧民の代々伝わる生活の知恵が凝縮されている。毎年晩秋から初冬、羊が十分に太ったら処理を行う。羊肉を細長く切り、粗塩をまぶして風通しの良い場所の棚につるす。 

タクラマカン砂漠縁辺部の乾燥した気候と昼夜の温度差は「天然の乾燥工房」となる。昼間の強い日差しが水分を蒸発させ、夜に急に寒くなるため脂の香りが閉じ込められ、さらに乾燥した空気が菌の繁殖を抑える。こうして半月ほどで肉が縮み、表面に塩の結晶が出てきて、内部には柔らかい弾力が保たれる。 

現地では、ほとんどの家庭が風干肉を作り、そこから生まれた家庭料理が「ナリン(那仁)」だ。ナリンには馬肉や羊肉、そして手打ちの「皮帯麺」(幅広でもちもちした麺)を使う。まず、風干肉を鍋に入れて弱火でじっくり煮る。肉を煮ている間に、小麦粉と水をこねて生地を作り、1時間ほど寝かせ、何度もこねて伸ばし、幅広の麺に切る。肉がほろりと柔らかくなったら一度取り出し、肉のうま味が染み込んだスープに麺を入れて煮あげる。 

何度もこねて伸ばされた麺は肉の脂を吸収し、驚くほどコシとうまみが出る。風干肉は歯ごたえがあり、脂はほのかな香ばしさを添える。刻み玉ねぎをかければ、炭水化物タンパク質香辛料の味が溶け合い、食欲をそそる。こんなときには、雪解け水で醸した白酒を飲みながら、キルギス族の民謡を聞きたくなる。味覚と聴覚の供宴を楽しめるからである。 

人民中国インターネット版

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