海の道が結んだ国際交流 港の生活を潤す茶と温泉
福建省福州市は、2200余年の建城史を有する古い町だ。山を背に海に臨み、江河に囲まれたその地では、絶え間ない潮騒が、この都市が海によって興り、開放と相互交流によって発展してきた歩みを見守ってきた。
福建と海との間には、語り尽くせぬ物語がある。歴史上、福州は海上シルクロードの重要な港湾であり、古来、東アジアや南洋諸国との航海往来が盛んであった。そのため日本とも深いゆかりを有する。804年、日本の僧・空海は遣唐使にしたがって入唐求法の途に就いたが、暴風に遭い、福州の長溪県赤岸港(現在の霞浦県赤岸鎮)に漂着した。その後、福州の開元寺にて修行に励み、のちに長安へ向かった。同寺には今日に至るまで空海の銅像が安置されている。それから数百年後の1654年、福州福清の黄檗山万福寺の隠元禅師が長崎へ渡り、宗派を開き、法をひろめ、再び中日文化交流の美談を記した。
海洋の遺伝子を宿す都市
東中国海の浜辺、閩江河口に位置する福州は、海洋地理の優位性に恵まれている。2000余年にわたり、海洋の遺伝子はこの都市の発展の筋道に深く刻み込まれてきた。
千年の潮騒が響く町と海
長楽区の閩江河口付近にある17の橋孔がある防潮堤に立てば、江風が海の塩気を帯びて吹きつける。
視界は極めて開けている。一方には、閩江が東中国海へと流れ込む壮大な景観が広がり、江水と海水が交わる地点には淡い境界線がにじむ。他方には、幾重にも連なる消波ブロック(1)が海堤に沿って延び、荒々しい工業的景観と自然の海景とが独特の美を形作っている。
夕刻、落日はゆるやかに水平線へと沈み、空をオレンジと薄紫のグラデーションに染める。波間は砕けた金のようにきらめき、海堤の輪郭もまた柔らかな光に包まれる。岩礁に腰を下ろし、波音に耳を傾けながら沈みゆく夕日を見送れば、思いはいつしか千年のかなたへとさかのぼる。

早くも両漢時代(紀元前202~後220年)には、福州はその地理的優位と人々の優れた航海技術を背景に、東冶港を開いた。唐代(618~907年)中期から五代(907~979年)にかけては、海上シルクロードの重要港湾都市、かつ経済・文化の中心地となり、広州・揚州と並んで当時の中国三大対外貿易港の一つに数えられた。
明の永楽3(1405)年より、航海家・鄭和は使節団を率いて7回にわたり西太平洋およびインド洋へ遠航し、30余りの国と地域を訪れた。これは15世紀末の欧州における大航海時代以前、世界史上最大規模の海上探検であった。当時、使節団は福州長楽の太平港を整備・補給、船員募集および出航待機の拠点とし、これが当地の造船業および商業の発展を直接的に促した。
清末には、福州は「五口通商」の一つとして開港され、各国の商人が集い貿易を行った。すなわち、福州2000余年の建城史とは、海と共に生まれ、海によって興隆してきた歴史にほかならない。
碧波に描く発展の新章
早朝、羅源県鑑江鎮の鑑江湾のほとりで、養殖業者の唐洪さんは手際よく小舟に乗り込み、海に出る準備を整える。
「向こうに見えるでしょう。この2年で、わが家の160基余りの老朽化した養殖いかだを全て新調しました」
小舟が青い海面を進むと、養殖いかだや網いけすが波に合わせて上下に揺れる。唐さんは少し離れた新しいいかだを指し示して言う。
「今のいかだはより堅牢で、しかも環境に優しいんです」
海を糧としてきた漁民にとって、養殖いかだは生計を左右する存在である。従来のいかだは主に木材や発泡スチロール製の浮き玉を用いており、海上漂流ごみや発泡材による汚染を引き起こしやすかった。
現在では、全鎮で12万5000基に及ぶ養殖いかだの改造が全て完了し、新型の環境配慮型プラスチック製網いけすや中空浮き玉が、従来の雑然とした木製いかだや発泡浮き玉などの伝統的養殖施設に取って代わった。「今回の海上整備を通じて、海水はいっそう澄み、環境も良くなりました」。唐さんの言葉には深い安堵がにじむ。
近海から沖合、さらに遠洋へと、プラスチック製いかだや新型網いけす、さらには沖合養殖プラットフォームが星のごとく点在する。福州の人々は、より海と調和する方法で海に食を求め、持続可能な「ブルー・ファーム」を築き始めている。これは単なる生産方式の革新ではなく、発展理念の転換にほかならない。すなわち、海によって生きると同時に、海と共に生きるという思想である。
昨年5月、福清興化湾水鳥省級自然保護エリアにおいて、福建省初となるマングローブ修復に焦点を当てた生態系市民参加プロジェクトが正式に始動した。130余人の市民ボランティアが干潟に立ち入り、2000本を超えるマングローブの苗木を共に植樹した。現在では、北は羅源湾・閩江河口湿地から、南は福清湾・興化湾に至るまで、市内963㌔に及ぶ海岸線に「海岸の森」が次々と育ち、生気をたたえている。
福州人の暮らしの美学
福州の街角では、無形文化遺産の伝統の流れと庶民の日常とが溶け合い、福州人特有の生活美学を描き出している。
町に満ちるジャスミンの香り
福州の大通りや路地を歩けば、大小さまざまな「愛心茶屋台」が目に入る。市民や観光客に無料でジャスミン茶が振る舞われている。
福州はジャスミン茶発祥の地であり、主要な生産地でもある。2022年、「中国の伝統的製茶技術およびその関連習俗」は国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)により正式に「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に登録され、福州ジャスミン花の窨製技法もその一つに名を連ねた。

もっとも、ジャスミンは福州固有の植物ではない。これもまた海を経て福州へ伝来したものである。
ジャスミンはインド原産であり、ジンチョウゲ・スイカズラ・ザクロと共にインド仏教の「四大聖花」と称される。『福州茶志』によれば、前漢時代(紀元前202~後8年)、ジャスミンは海上シルクロードを通じて福州に伝わり、広く栽培されるようになった。北宋期(960~1127年)には、蔡襄の『茶録』に触発され、当時の福州の長官であった柯述がジャスミン茶の製法を発展させた。清代から民国期にかけて、ジャスミン茶は最初の隆盛期を迎え、名高い貢茶(皇帝に献上する高級茶)となったのである。
4月、春の挿し木の季節がまた巡ってくる。この時期になると、獅子頭ジャスミン茶第7代伝承者である翁文峰さんは渡し船に乗り、閩侯県の中洲へ向かい、土壌や水分、天候の変化を丹念に観察する。
古来、福州のジャスミン栽培地は主に閩江および烏龍江両岸とその下流の中洲に分布してきた。この一帯は温暖で日照に恵まれ、降水量も豊富である上、砂壌土は肥沃で水分をよく含み、良質なジャスミンの生育に極めて適している。「獅子頭ジャスミン茶特有の氷砂糖のような甘みを出すには、この中洲で育った一重咲きのジャスミンでなければならないのです」と翁さんは語る。
ジャスミン茶と共に育まれてきたのが、福州の茶屋台文化だ。「私が子どもの頃、人々は仕事の合間に茶屋台に集まり、ジャスミン茶をいれて、竹椅子に寝そべりながら語らい、評話(講談の一種)を聴いたものです」と翁さんは回想する。しかし時代の変遷とともに、古き福州の茶屋台は一時、人々の視野から姿を消しつつあった。
民俗研究者の方炳桂さんはこれを深く惜しんだ。09年、ちょうど翁さんが新たに茶葉店を開業した折、方さんの提案と支援の下、翁さんは店内に「南仙茶屋台」を設け、週に一度、自費でジャスミン茶や机・椅子を提供した。方さんは来客に福州の民俗文化について語った。第1回の開催直後から南仙茶屋台は福州で評判を呼び、多くの伝統文化愛好者が集った。
人々はここで無料の茶を味わい、語らい、講座に耳を傾けた。中には即興で評話や閩劇(福州方言で演じられる地方劇)を披露する市民も現れ、南仙茶屋台は「古き福州の味わい」を求める人々の重要な拠点となったのである。

16年、茶屋台のメイン講師だった方さんが逝去し、翁さんは一時、存続に不安を抱いた。しかし幸いにも、福州の文化・歴史研究者や民俗愛好者が自発的に後を継ぎ、講師役を担った。さらに南仙茶屋台は「空中茶屋台」を開設し、ラジオ放送を通じて講座の内容をより広く伝えるようになった。これまでに200回以上が放送されている。
こうして、古き良き福州の茶屋台文化には、時代の新たな息吹が吹き込まれたのである。
翁さんらの尽力により、「老福州茶屋台」は現在、福州市の第5陣の無形文化遺産項目に登録されている。茶屋台は再び市民の日常へと戻り、社交と憩いの重要な場となっているのである。
古今をつなぐ温泉のぬくもり
早朝、福州の旧市街地がまだ完全には目覚めていない頃、鼓楼区にある三山座浴場にはすでに白い湯気が立ちこめている。浴槽には、近隣から「頭湯」(その日に初めて張られる新しい温泉水)を目当てに訪れた常連客がひしめく。
「浴場は6時半に開きます。私は時間どおりに来ましたが、その前からすでに多くの人が入口で待っていましたよ」。常連客の陳錦さん(66)は笑いながら語る。
福州では温泉を「湯」と呼び、浴場の客を「湯客」と称する。「温泉のない暮らしは、福州人の暮らしではない」――これは多くの地元の人々が口にする言葉だ。
福州における温泉沐浴の歴史は、文献に記されるだけでも1700年以上に及ぶ。西晋の太康2(281)年、晋安郡(現在の福州)の太守・厳高は築城の際、東門外の人工運河(現在の晋安河)のほとりで偶然温泉を発見した。彼は直ちに石で浴池を築かせ、人々の入浴に供したという。

唐代に至ると、福州にはすでに「温泉郷」の地名が現れていた。北宋期には城内に官営・民営あわせて40カ所余りの温泉が存在し、温泉入浴による養生や療養が一種の流行となった。清代にはその発展が最盛期を迎え、城内外に30余りの泉源が点在し、温泉文化が大いに興隆したのである。
温泉浴場は、古くからの福州人にとっての「余暇の三つの宝」(あと二つは演芸場と茶屋台)の一つだ。福州方言には「透脚」という言い方があり、温泉に漬かった後の爽快感を表す。頭から足先まで赤く温まり、全身で味わう幸福感を意味する言葉だ。
湯船から上がり、体の力が抜けたまま頑丈な竹製の寝椅子に身を横たえ、熱いジャスミン茶を一杯飲めば、まさに仙境に遊ぶ心地となる。さらに顔なじみの「湯友」と語らえば、逸事奇聞から街談巷説に至るまで話題は尽きず、実に心地よい。
日が高くなる頃、三山座浴場の湯客たちは次々に湯を終え、肩に手ぬぐいを掛け、木製のサンダルをつっかけて、ゆったりと陽光の中へと歩み出る。
幾筋もの熱き湯は、あたかも古今をつなぐ渡し場のごとき存在である。町並みは長い年月の中で移り変わろうとも、温泉がこの都市にもたらしてきた人間味あふれる日常のぬくもりと、歳月の趣は、いまなお変わることがないのである。
軽食に息づく「海味」の創意
福州の人々の食卓には、常に海の味わいがある。海鮮料理にとどまらず、街角の多様な軽食の中にも濃厚な「海味」が息づいている。
鼓楼区にある「永和魚丸」の三坊七巷店に足を踏み入れると、中年の職人がその場で魚丸(魚すり身団子)作りの妙技を披露している。目の前には三つの盆が並ぶ。左手を魚のすり身の上にかざし、握ったすり身を押し出すと、親指と人差し指の間から雪のように白い半球が顔を出す。右手で肉のあんをすくって中に詰め、さじを引き抜く瞬間、左手の親指を滑らせて口を閉じ、軽く握ると、つややかで丸々とした魚丸が指の間から姿を現す。再び指を締め、さじで受け止めて水盆に落とす。この動作が数秒おきに繰り返され、簡潔にして鮮やかであり、見る者を飽きさせない。
魚のすり身作りにも確かな技が潜む。魚肉は新鮮でなければならず、さもなくば魚丸は形を保てず、弾力も失われる。魚肉は変質しやすいため、練る際には水の代わりに砕氷を用いて鮮度を保つ。塩は魚肉中のたんぱく質を溶出させ、弾力あるゲルを形成させる働きを持つ。魚肉・塩・砕氷の配合比率、投入の時機や回数はいずれも緻密な配慮を要し、わずかな差異が食感を大きく左右するのである。
「鼎辺糊」もまた広く知られた海味の軽食だ。「鼎」とは本来、煮炊きに用いる鉄鍋を指す。米の生地を熱した鍋の縁に沿って流し入れると、たちまち薄い皮状に凝固する。それをはがしてシジミのだし汁に入れ、干しエビ、シイタケ、ハマグリなどと共に煮る。清らかでさっぱりとした味わいは、福州の朝食に欠かせない一品だ。

「蛎餅」は鼎辺糊の最良の組み合わせの一つであり、福州伝統の揚げ物である。
インディカ米(と大豆をひいて生地とし、塩を加えて混ぜる。これをさじですくって浅く凹んだ鉄製のひしゃくに広げ、炒めたキャベツ、干しエビ、のりをのせ、さらに肥えたカキを数個押し込み、その上からもう一層生地を重ねて具を包む。油鍋に入れて黄金色に揚げれば完成である。
出来上がった蛎餅は手のひらほどの扁平な円形になる。外皮はサクサクと香ばしく、中身はふんわりとしている。思いがけず柔らかなカキに歯が触れた瞬間、ほとばしる鮮やかな甘みは、まるで口中で白い波花が弾けるかのようである。
弾力に富む一粒の魚丸から、清らかな味わいの鼎辺糊、そして香ばしく揚がった蛎餅に至るまで――海のうま味は、福州の人々の創意と巧みな手仕事によって、日々の暮らしの中の素朴な味わいへと昇華されているのである。
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