戦国時代とギリシャ(3) 連合より自治重視の都市国家

2020-10-21 15:42:50

潘岳=文

潘岳 中央社会主義学院党グループ書記 

1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。中央社会主義学院党グループ書記、第1副院長(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。

 

アレクサンドロス大王による統一運動

紀元前325年、アレクサンドロス大王はエジプトとペルシャを征服したギリシャの精兵を率い、はるかインド・パンジャーブ地方のビアース河畔にたどり着いた。川を渡ればインド全域、ひいては中国だ。彼は前進を続けるようあふれるような思いで将兵を鼓舞したが、重い戦利品を運んでいた戦士たちはそれ以上東へ進もうとしなかった。アレクサンドロス大王は河畔の夕日に向かって激しく泣き、引き返すほかなかった。彼は2年後に病死した。

アレクサンドロス大王の東征はギリシャから出てきた統一運動だ。ギリシャの統一運動はポリス(都市国家)の危機から生まれた。今日、西洋が深く懐かしむギリシャ古代文明とは、実際のところ民主制度の最も偉大な成果を代表するアテネの歴史の短い期間、すなわちペリクレスが政治を行った黄金時代のことにすぎない。ごく短い数十年の黄金時代の後、ポリスは絶え間ない内部抗争に陥っていった。

100年続いたこの混乱した局面の中で、次のような声が次第に出てきた。各ポリスは限りある資源を奪い合わず、外部に向かって団結し、ペルシャを征服して植民すべきだ。そうすればギリシャは永遠の平和を獲得できる。

最も高らかに声を上げたのはアテネ最高の雄弁家イソクラテスとギリシャ最高の哲学者アリストテレスだ。

 

アレクサンドロス大王の在位期間、古代ギリシャ文化の繁栄と東西文化の交流が進んだ(写真提供・潘岳)

イソクラテスは紀元前380年に発表した「パネギュリコス(オリンピア大祭演説)」の中で、「同じ源泉から利益を得て同じ敵と戦うまで、ギリシャ人は仲良く暮らすことができない」「そのため、私たちは必ず全力で速やかに戦争をここからアジア大陸に移さなければならない」と述べた。

現代の歴史学者はこの考え方を「汎ギリシャ主義」あるいは「大ギリシャ主義」と呼ぶ。その根本的な原動力は土地不足や人口過剰の解決だ。ギリシャ文明の伝播は単なる副次的な結果だった。これは後世の西洋における帝国主義思想の原型になった。イソクラテスは帝国主義を打ち出した最初の人物だ。

しかし、彼が40年間呼び掛けても、アテネは終始全く耳を貸さず、むしろ引き続きスパルタやテーベ、マケドニアを攻撃しようとし、団結してペルシャと戦おうとはしなかった。

イソクラテスは最終的に諦め、マケドニア国王ピリッポス2世にギリシャ統一を公然と呼び掛けた。彼は有名な戦略をピリッポス2世に提案した。「ほかのペルシャ総督にペルシャ国王の束縛から抜け出すよう説得する必要があります。その前提は彼らに『自由』を与え、さらにそうした『自由』の恩恵をアジア地域に及ぼすことです。なぜなら、『自由』という言葉がギリシャ世界に入ってくれば、私たち(アテネ)の帝国とラケダイモン(スパルタ)人の帝国の瓦解を引き起こすからです」

これらの話は、自由と民主というアテネに対する後世の人々の印象とは大いに異なる。20年後、ピリッポス2世の息子アレクサンドロス大王はイソクラテスの戦略と考え方に基づき、エジプトとペルシャを征服し、大ギリシャ植民地帝国を打ち立てた。ただ、アレクサンドロス大王の師はイソクラテスではなく、アリストテレスだった。

 

帝国主義の起源はアリストテレス

アリストテレスはマケドニアの支配下にあったエーゲ海北西の都市スタゲイロスに生まれた。そこはアテネ人から見ると蛮族の地域だった。

アリストテレスは蛮族の身であっても心はアテネにあった。彼はプラトンの最も優秀な弟子だったが、プラトンの死去に際して学園「アカデメイア」の後継者にはなれなかった。一番の理由はアリストテレスが外国人だったことだ。彼には「公民権」がなかったため、アテネで合法的な財産(土地)を所有できず、政治に参加できなかった。法律はギリシャの最も偉大な知者をアテネから切り離した。また、アテネ以外で生まれながらも喜んでアテネに忠誠を尽くす全ての有識者をアテネから切り離した。興味深いのは、この法律を発布したのが民主政治の模範であるペリクレスだということだ。

アリストテレスはアテネを離れてマケドニアに身を寄せ、王子だったアレクサンドロスの教師になった。彼はギリシャ文明の最高の基準でアレクサンドロス大王を育てた。彼の教育によって14歳の少年はギリシャ文学やホメーロスの叙事詩を愛好し、生物学や植物学、動物学などの知識を情熱的に学ぶようになった。それ以上に重要なのはやはり政治思想だ。アリストテレスはアレクサンドロス大王のために特に『王道論』『植民論』を書いた。アレクサンドロス大王の精神と事業の偉大さはアリストテレスの深い形而上学から来ているとヘーゲルは指摘した。

 

古代ギリシャの有名な思想家で、西洋哲学の開祖の一人アリストテレス(写真提供・潘岳)

アレクサンドロス大王は容赦なく征服しながらギリシャ文明を広めた。競技場や神殿を備えた大量のギリシャ型都市をアフリカ、西アジア、中央アジア、南アジアに建設し、博物館と図書館で科学、文化、哲学、芸術の殿堂をつくり上げた。西洋の帝国主義の「暴力的征服+文明の伝播」という方式はまさにアリストテレスに起源する。

アリストテレスはアレクサンドロス大王に「アジア人の主人になり、ギリシャ人の指導者になる」よう提案した。イソクラテスもかつてピリッポス2世に「ギリシャ人には説得を用いてよい。蛮族には脅迫を用いてよい」と述べた。これこそ、内部が民主で外部が植民、上部が公民で下部が奴隷という「ギリシャ帝国」の精髄だ。こうしたダブルスタンダードのギリシャ式帝国は後日の欧州帝国の精神的な原型、政治的なひな型だ。

紀元前338年、マケドニアはアテネに大勝し、勝利に乗じてペルシャに進軍した。この知らせを受けたとき、イソクラテスはすでに98歳だった。送り返されてきたアテネ兵の遺体を見た後、彼は絶食による死を選んだ。マケドニアとの戦場で死亡した青年らによって、彼は自分の「大ギリシャ」思想に解決しようのない矛盾が存在することを理解した。彼は自由を尊重しただけでなく、統一を渇望した。統一がもたらす暴力は自由を破壊する可能性があった。ただ、自由が生む混乱もまた、統一を破壊する可能性があった。

イソクラテスの死後、ポリスは二度と団結しなかった。ギリシャの大軍の遠征前夜、ピリッポス2世が暗殺され、テーベは知らせを聞いてすぐに離反した。アレクサンドロス大王がバビロンで死ぬと、アテネは反乱を起こした。最後にマケドニアがローマの侵入者と決戦した際、ポリスはあろうことか背後からマケドニアに致命的な一撃を加えた。マケドニアがギリシャの半島文明を広めて世界文明にしたとはいえ、ポリスはむしろ共によそ者に破壊されようともその権威を認めなかった。

米国の歴史学者ファーガソンは次のように総括している。「ポリスは独特の内在的な構造を持つ単細胞の有機体で、再分割を進めない限り発展しようがなく、それらは無制限に同じような都市を複製できた。しかし、新旧を問わずそれらの細胞は全て、連合して一つの強大な民族国家を形成することができなかった」

なぜなら、ポリス政治の基礎は民主ではなく自治だったからだ。ポリス自身はいかなる政治制度も選択できたが、決して外来の権威に服従しなかった。ギリシャはローマに征服されるまで、大小のポリス全てが満足する「連邦制」には変化せず、ポリスの利益は終始一貫して共同体の利益の上にあった。

  
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