秦漢とローマ(4) 倫理と責任重んじる商業精神

2021-03-17 14:16:07
潘岳=文

潘岳 中央社会主義学院党グループ書記

1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。中央社会主義学院党グループ書記、第1副院長(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。

「仁政」思想で敗者を養う

2017年夏、中国・モンゴル合同考古学隊がモンゴル中央部ハンガイ山脈で、赤い岩壁に刻まれた石刻を見つけた。専門家の確認を経て、これは漢朝が匈奴を徹底的に打ち負かした後に刻まれ、かつて多くの古書で触れられていた「燕然山銘」だと確認された。

この碑文はローマ帝国にとっても非常に重要だ。なぜなら、その戦いが漢朝と匈奴の200年にわたる一進一退の戦いを終わらせ、それによって北匈奴がひたすら西に向かい、中央アジア草原の民族が西へ移動するという連鎖反応が起きたからだ。

匈奴はなぜ西へ移動したのか? 米国の古気候学専門家エドワード・クック氏は13年、匈奴の西への移動は気候の変化と直接的な関係があったと指摘した。2、3世紀にモンゴル高原と中央アジア草原は100年に及ぶ深刻な干害を経験し、遊牧民族は生存できず、中国に南下するか、西の欧州に移動するかのどちらかだった。匈奴は漢朝との戦争で勝利を収められず、西へ移動するほかなかった。彼らは中央アジア草原の遊牧民族と共にもう一つの農業文明の中心であるローマに向かって突き進み、最終的に西ローマ帝国を瓦解させた。

もし漢朝が匈奴の南下にしっかり抵抗していなかったら、東アジア史と世界史は変わっていただろう。漢の武帝は即位7年後の紀元前133年、匈奴の継続的な侵犯にこらえ切れず、12年間の漢匈戦争を始めた。霍去病が河西を獲得した決戦の中で、最終的に匈奴の渾邪王は部族の4万人を率いて投降した。武帝は彼らを辺境地区に落ち着かせると決めた。大臣らはこれに対し、匈奴は悪事の限りを尽くしており、官署の財政で養い、漢の民に世話をさせるのは国の大本を損なう可能性があるといさめた。武帝は考え込んだ後、宮中の資金で匈奴の人々を落ち着かせることを決定した。

漢朝はなぜ敗者を奴隷にせず、逆に自腹を切って養ったのかと疑問視する人がいる。儒家の「仁政」思想の影響下で、漢朝が人心の帰順を必要としていたことがその答えだ。誠実に帰順しさえすれば、匈奴の部族の人々は中国の庶民となるのであり、仁義と財貨で待遇する必要があった。

しかし、仁政の負担は非常に重かった。中原は草原と同じように天災に遭い、破産する小農が多く現れた。彼らは生活のためにやむなく田畑や住宅を豪商や大商人に売った。そこから利益をあさった投機商人や大地主は国家の利益に全く関心を持っていなかった。ひいては、朝廷が戦乱平定のために借金をしようとしたとき、彼らは朝廷の勝算が大きくないと見て貸そうとしなかった。

これに対し、朝廷と民間は農業と商業の矛盾の解決方法を求め続けていた。法家思想からは「重農抑商」が提案されたが、商業は漢朝の繁栄の基礎だった。一方、儒家は農業税減免を打ち出した。しかし、税収が減少すれば、中央の財政は何をよりどころとして災害救済や戦争に取り組むのか?

武帝の時代になり、商人の家庭に生まれた政治家の桑弘羊がこの問題をうまく解決した。

 

個人の財産でも「天下の管理」

桑弘羊は13歳で宮廷に入り、16歳だった劉徹(武帝)の勉強のお供をした。20年後、再び商人たちが協力を拒否した際、憤った劉徹は桑弘羊の計画の下、紀元前120年、全国の製塩と鋳鉄を官営とするよう命令を下した。塩と鉄は古代社会で最大の消費財で、国はこれによって最大の財源を独占した。

そのほか、桑弘羊は「均輸法」と「平準法」を発明した。均輸法は、各地が地元で最も豊かな物品を朝廷に献上し、朝廷が官営のネットワークを通じて不足地に販売することを定め、農業税を増税しない状況下で政府が大きな財力を得るのに寄与した。平準法は官営のネットワークによって価格変動を解決した。ある商品の価格が必要以上に上昇、または下落した際、国家が市場に向けて安売り、または買い入れを行い、物価を安定させた。

桑弘羊はさらに貨幣制度を統一し、各郡国に分散していた貨幣鋳造権を朝廷に取り戻した。彼のこのマクロ調整政策と確立された中央財政体制は、漢朝が農業災害と匈奴来襲に対処するのに寄与しただけでなく、漢朝が多くの成果を上げるように経済的な保障をもたらした。

桑弘羊は商人の気質を備えながら儒家精神にも従った。彼は個人の財産を屯田開発と水害防止につぎ込み、国家のために「天下の管理」を行った。一人の商人として、全ての束縛を乗り越えた個人的な商業帝国の樹立を追い求めるのか、それとも独善的に振る舞うほかに「兼ねて天下を済ふ(広く天下を救済する)」のか? 桑弘羊は後世の中国の商人に商業の道徳と使命という永遠のテーマを残した。

 

漢代の散文家・桓寛が著した『塩鉄論』。桑弘羊の経済思想を比較的まとめて

記録している(写真提供・潘岳)

 

西洋企業家が答えるべき問題

桑弘羊と同時期のローマ帝国で最大の豪商は、第1回三頭政治を行ったクラッススだ。クラッススが財を成した方法は次のようなものだった。ローマに消防隊がない状況を利用し、個人所有の奴隷500人の消防隊を自ら設立した。住宅火災が起きると、彼は消防隊を連れて駆け付け、低価格で住宅を売り渡すよう住宅所有者に求めた。所有者が応じれば消火し、応じなければそのまま全焼させた。所有者がやむを得ず住宅を低価格で売り渡した後、彼は修理し、元所有者に高額な家賃で貸した。こうして彼は「火事場泥棒」で大半のローマ市街地を買い取った。このほか、クラッススはローマ最大の奴隷販売事業を取り扱っていた。彼の遺産はローマの1年分の国庫収入に相当した。

クラッススはパルティア遠征中に死亡した。その遠征は国家のためではなく、自分のためだった。新しい行政区域を打ち立てた者には、そこの富を先に奪う権利があるという暗黙のルールがローマにはあった。クラッススのような商人政治家は中国の経済界では尊重されないし、まして政治の指導者になることはあり得ない。しかしローマでは、一個人の財産が軍隊を武装させるのに足り、十分な得票数を得るのに足りさえすれば、政界トップの座に座ることができた。

中国の商業精神は儒家思想を生んだ農業文明の支流だと考える人が近代以降存在する。実際はそうではない。まさしく中国の商業精神は儒家思想を生んだ農業文明に内在する重要な部分だ。それは受動的に儒家思想を受け入れたのではなく、儒家思想を実質的に修正した。

斉国の宰相・管仲は早くも戦国時代に、市場で富を調節し、貨幣で価格をつくり出し、利益の枠組みで社会的行動を誘導し、行政手段による強制的な取り締まりに反対することを打ち出していた。こうした思想は非常に現代的だ。中国が資本主義経済を発展させてこなかったのは、決して商工文明の種がなかったからではないということが分かる。

中国の商工文明は始まってすぐ儒家によって道徳倫理を加えられ、後にまた国家に対する責任を加えられたと指摘する人がいる。まさにこの二重の束縛により、中国はすぐには西洋式の企業家を生み出せなかった。しかしながら、道徳倫理と国家に対する責任こそ、今日の西洋の企業家たちが必ず答えなければならない問題だ。純粋な個人の利益は社会の共同利益を自動的に達成できるのか? 国家と個人の利益の境界をどう整理するのか? 自由経済は国家主権から抜け出せるのか? 中国は2000年前にこれらの問題を考え始めていた。

関連文章