秦漢とローマ(5) 「平民精神」王朝と精鋭連合

2021-05-26 10:51:31

潘岳=文

 

潘岳 中央社会主義学院党グループ書記

1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。中央社会主義学院党グループ書記、第1副院長(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。

 

国家統治の道筋に大きな違い 

ローマ帝国初代皇帝オクタウィアヌスと漢の武帝劉徹には多くの類似点がある。彼らは共に天才少年だった。劉徹は17歳で即位し、49歳までに漢朝の最盛期を築いた。オクタウィアヌスは19歳で挙兵し、47歳までにローマ帝国の制度構築を終えた。

彼らは複雑な人物でもあった。劉徹を儒家だと考えても、その行動は法家のようだった。法家だと考えても、彼は秦の体制には戻らなかった。道家を大事にしたと考えても、彼は儒家を用いて国をつくっていた。オクタウィアヌスも矛盾に満ちていた。彼はアントニウス、レピドゥスと第2回三頭政治で協力し、元老院を飾り物にした。また、元老院と協力してアントニウス一派を滅ぼした。彼は共和国の形式を残しながら帝政を実行した。彼は多くの文官職を兼ねていたが、軍隊こそが彼の本当の勢力だった。

オクタウィアヌスと劉徹が複雑だったのは、ローマや漢朝のような超大型の政治体を統制しなければならず、いかなる単一の理論、制度、措置であっても支えられなかったからだ。

国家のイデオロギーを重視したことについては、彼らはほぼ一致している。ちょうど劉徹が「罷黜百家、独尊儒術(諸子百家を排斥して儒学のみを尊重する)」を行い、全ての人々の思想統一を進めたように、オクタウィアヌスも「ローマ民族」のアンデンティティー構築に力を注ぎ、分裂主義を批判し、国家に対する社会の責任を呼び掛けた。

しかし、国家統治における2人の道筋と手に入れた成果は大いに異なる。オクタウィアヌスは財閥による政治の破壊を克服するため、財閥を文官体制に取り込み、「貴族が財閥と天下を共にする」という局面をつくり出した。一方、漢朝の文官路線は末端から人材を選抜して養成し、「平民精神」を備えた王朝をつくり上げた。

ローマ帝国の文官は行政区域の首府に集中し、末端に深く入り込まなかった。行政区域の下にあるのはそれぞれ自治権を持つ王国、都市、村落だった。ローマの派遣した総督と財務官は軍事、司法、税務だけに責任を負い、公共サービスや文化・教育には一切関与しなかった。彼らはしばしば地方の実力者の意向に基づき、地方の事務に決断を下した。例えば、ユダヤ属州総督ピラトは決してイエスを処刑したくはなかったが、ユダヤの指導者たちが強く主張したため、不本意ながらイエスを十字架にかけた。地方の都市建設や文化活動も地元の大商人の自発的な協賛によって行われた。英国の政治学者サミュエル・ファイナーはローマ帝国を「多くの自治市で構成された巨大な株式会社」と呼んだ。

このため、ローマ帝国は地中海を取り巻く上部エリートの大連合にすぎず、末端の大衆はそこに含まれていなかったし、まして融和して通じ合うなど問題外だった。西洋の学者が指摘するように、ローマ帝国の文明には豊かで複雑な上部構造があったが、経済的な基礎は粗野で醜い「ラティフンディア(奴隷労働で経営された大農場)」だった。文化的な基礎もそうだった。ローマでラテン語を話せたのは貴族と官僚だけで、末端の大衆は基本的にラテン語を理解しなかった。ローマが彼らに教えようとしなかったからだ。このため、「ローマ民族のアイデンティティー」というオクタウィアヌスの期待は人々の心には届かなかった。ひとたび上部が崩壊すると、末端の庶民は各自で盛んに活動し、ローマをすっかり捨ててしまった。

一方、秦漢は上部と末端の疎通を図り、県・郷に直接つながる文官体制をつくった。官庁が末端から人材を募集し、厳格な審査を経て地方に派遣し、税務や民政、司法、文化・教育を全面的に管理させた。漢朝は末端での学校の設置、経師(儒学の経典を教えた教員)の配置、典籍の教育を通じ、異なる地域の人々を一つの文化共同体にした。たとえ中央政権が崩壊しても、各地の人々はやはり同じ文字を書き、同じ道徳に従い、同じ文化を持っていられた。こうした社会の基礎により、統一を尊ぶ「大一統」の王朝が長く続いた。

 

中国で実現したキケロの理想

ローマと秦漢の二つ目の違いは軍隊と政府の関係にある。オクタウィアヌスが両者の関係を解決するのに取ったのは軍閥方式だった。彼はまず最も豊かなエジプトの財政をフィスクス(皇帝金庫)のものとし、そこから軍団に俸給を支払った。これによって2方向の法則が導かれた。一方では、軍隊は俸給を最も多く出せる人物のものだということだ。他方では、皇帝がひとたび俸給を支払えなくなれば、俸給を支払える人物を皇帝にしなければならないということだ。こうした法則の下の平和は、オクタウィアヌスの後には50年しか続かなかった。統計によると、オクタウィアヌスからコンスタンティヌス1世までの364年間で、帝位の交代は平均して6年に1回起きた。このうち、皇帝の総人数の約70%を占める39人が軍隊の手で殺されていた。

ローマ帝国は末期に経済が崩壊し、手厚い俸給を支払えなくなった。ローマ人は兵士になりたがらず、ゲルマン人を雇って国を守るほかなかった。最終的にローマを攻め落としたのはこれらの傭兵軍だった。ローマ帝政時代の歴史家タキトゥスが「ローマ帝国の秘密は、皇帝の命運が実質的に軍隊の手に握られていることにある」と指摘した通りだ。

ローマはなぜ軍人が政治に干渉するのを抑制できなかったのか? 一つ目の重要な原因は、ローマに末端の政権がなかったことだ。総督らは軍隊に頼って治安と税収を維持しなければならず、集めた税はまた軍の俸給に変わった。中央を代表すべき総督はこうして地方を代表する軍閥に変わっていった。秦漢の軍隊は税を徴収できず、民政も管理できなかった。文官制度の下、軍隊は戦時には兵士となり、戦後には農民になり、ローマの軍隊のような利益集団にはならなかった。

二つ目の重要な原因は、ローマの軍人の「国家意識」に問題があったことだ。軍団はローマから非常に離れていたため、ローマを忘れてしまったのだとフランスの啓蒙思想家モンテスキューは指摘した。しかし、原因は決してそのように単純ではなかった。漢朝と西域は遠く隔たっていたが、漢の武将の班超は1000人余りの兵士だけを頼りに、外交と軍事の素晴らしい知恵により、西域諸国の軍隊数十万人の包囲の中で西域都護府を復活させ、シルクロードをつなげた。モンテスキューの考え方に基づけば、班超は割拠して自分の地位を高めることが完全に可能だったが、彼は漢朝のために苦心して西域を30年経営し、最後には故郷で埋葬されることだけを望んだ。漢朝には班超のような将軍がほかにも数多くいた。

ある人は次のように指摘する。ローマの軍人が政治に干渉できたのは、ローマ皇帝の権力が「相対的専制」だったからだ。一方、漢朝の皇帝の権力は「絶対的専制」であり、反逆する勇気は軍人にはなかった。しかし、事実は全く異なる。後漢末期、名将の皇甫嵩は軍を率いて大乱を平定し、戦功を立てた。当時、皇帝に力はなく、奸臣が権力を握っていた。この機に乗じて軍を掌握して自分を守り、不測の事態に備えるよう皇甫嵩に勧める者もいたが、彼はきっぱりと軍の指揮権を差し出した。

皇帝の権力に強制力がなかった時期、なぜ皇甫嵩ら軍人はなおも規則を順守したのか? これは自発的に国家秩序に服従する責任意識から来ている。中国にも藩鎮(唐代、宋代の地方支配機構)の割拠や軍閥の混戦が起きたことはあるが、これまで主流になったことはない。中華文明の大一統精神は「儒将(学者の風格を備えた武将)」の伝統を生んだ。法家体制と儒家意識が共に力を発揮する下で、古代中国は文官による軍隊の制御を最終的に実現し、それは中華文明のもう一つの重要な特徴になった。「武器はトガ(古代ローマの一般的な外衣)に譲るべし(軍事は政治に道を譲るべきだ)」というキケロの理想は中国で実現したのだった。

 

漢代の著名な武将、外交家の班超(32~102年)は31年をかけて西域の50余りの国家を服従させ、漢朝の西域管理に大きな貢献を果たし、「定遠侯」に封ぜられた(cnsphoto)

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