秦漢とローマ(6) 宗教由来ではない中華文明

2021-05-26 10:51:44

潘岳=文

 

潘岳 中央社会主義学院党グループ書記

1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。中央社会主義学院党グループ書記、第1副院長(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。

神の国を望むキリスト教

西ローマ帝国最後の150年間の国教はキリスト教だった。

原始キリスト教は中東のパレスチナで始まった「漁師と農民」の素朴な宗教だった。これら最下層の貧民はローマの各行政地域が全く気に掛けなかった人々であり、多くのキリスト教徒もローマを気に掛けなかった。彼らは「神の国」に属するきょうだいであり、「俗世の国」の公民ではなかった。彼らは兵役に服するのを拒み、公職に就くのを拒み、ローマの神々を祭るのを拒み、皇帝の彫像にひざまずくのを拒んだ。

ローマの多神教には厳格な道徳規範がなく、ローマ社会の堕落を抑えられなかった。ローマの国家は最下層の貧民に何の関心も持たず、キリスト教徒だけが身寄りのない高齢者を全力で世話し、貧困者を訪ねて苦しみを聞き、疫病の死者を埋葬していた。次第に平民だけでなく、理想を追求するエリートもキリスト教を信じるようになった。

規律の厳格なキリスト教は遠い辺境の都市と周辺の諸民族の地域で末端組織を築き、軍隊と宮廷で大量に信徒を増やし、日増しに発展する「見えない国家」をローマ内部で徐々につくり上げていった。

このような強大な組織力と精神力に対し、ローマの政権を握る者は最初恐れを感じ、300年にわたってキリスト教徒の虐殺と迫害を行った。313年、コンスタンティヌス1世は懐柔に転じ、キリスト教を公認した。392年、テオドシウス1世は正式にキリスト教を国教にした。

ローマはなぜキリスト教を国教にしたのか? ある歴史家は、末端の民衆と兵士の支持を獲得するためだったと指摘する。またある歴史家は、絶対的な皇帝の権力を築き上げるのに一神教がより有利だったと指摘する。どの理由であれ、ローマ皇帝たちの願いは無駄になった。

コンスタンティヌス1世がキリスト教を公認して約40年後の354年、ローマのある官吏の家庭に子どもが生まれた。この子どもはローマ人エリートの育成モデルに基づいて教育された。彼は初めて聖書を読んだとき、文章が粗雑だったため、「この本はキケロの優雅な文章には遠く及ばない」と批判した。

30歳になると彼はローマの宮廷で弁論家になり、皇帝を褒めたたえ、政策を説明して宣伝し、ギリシャ・ローマ古典文明の火の伝承者と見なされた。しかしながら、豊かな生活、自由な思想、リラックスできる環境、極めて緩い個人の道徳規範も、彼の心の奥深くの欠乏感を埋められなかった。再び聖書を読んだとき、彼は言葉にできない「神の啓示」を経験した。ここから彼はキリスト教の最も偉大な神学者アウグスティヌスになった。彼はキリスト教の初期の教義を膨大な神学体系に発展させた。原罪、恩寵、予定説、自由意志などの思想により、彼はキリスト教哲学を集大成した。

410年、西ゴート人はローマを攻め落とした。これはローマが外来のキリスト教を信仰したことに対する報いだという声がローマの人々の間に上がった。アウグスティヌスは憤然として『神の国』を書いて誤りを正し、ローマ文明を徹底的に否定した。ローマはこれまで正義を実現したことがなく、「民衆の事業」を成し遂げたことがないため、共和国ではなく、単なる「巨大化した反動集団」だと彼は批判した。ひいては、「愛国はすなわち栄誉」という初期のローマ戦士の精神を否定し、全ての栄光は神に帰すべきだと指摘した。

アウグスティヌスは最後に、ローマ陥落は自業自得であり、キリスト教徒が最終的に望むのは神の国だと締めくくった。

 

キリスト教初期の神学者アウグスティヌス(354〜430年)。古代ローマ帝国統治下の北アフリカに生まれ、その思想はローマ・カトリック教会と西洋哲学の発展に影響を与えた(写真提供・潘岳)

 

「国家の悪」と「国家の善」

中国人の観念に基づけば、どれだけひどくてもローマは祖国だ。その腐敗を憎むあまり、まさか制度の改革と精神の再生を行うべきではないとでもいうのか。異民族が侵入してきたとき、まさか国家を守るべきではないとでもいうのか。国家改造の責任を全うする前に、どうして母国を完全に捨てて滅ぼせるのか。つまるところ、キリスト教は国教としてローマに尊重されたが、国家の命運と深くつながったことはなかった。

これは漢朝とローマのもう一つの相違点だ。一方では、漢朝の儒家政治の道徳倫理により、「矜寡孤独の者をして皆養ふ所あらしむ」は政治に携わる者の当然の責任になっていた。もう一方では、漢朝の法家の末端統治も「国家は不義の反動集団」と考えたことはなかった。

一神教が中国でローマのように発展するのは非常に難しかった。なぜなら、儒家信仰が天理と人倫を網羅し、儒家が鬼神を敬して遠ざけ、人文と理性によって国をつくり、宗教を基礎としない古代文明として中華文明を築いたからだ。あらゆる外来宗教は中国に入った後、必ず狂気じみた排他性を脱ぎ捨て、国家秩序と調和して共存しなければならなかった。キリスト教がローマに入ったのと同じ時期、仏教が中国に入ってきた。ローマはキリスト教に対し、虐殺と弾圧、あるいは全面的な受け入れを行ったが、中国は仏教に対してそのように軽率ではなく、中国の「禅宗」を生み出した。

キリスト教の神の国はこの世から離れて存在できるが、中国の天地自然の道理はこの世でこそ実現できる。また、儒家思想はすでに国家意識と一体化していた。儒家精神の浸透の下、中国化した宗教は全て「国家の価値」に強く同意した。道教には天下太平を実現する理想があり、仏教では為政者がうまく国家を統治した成果は決して高僧の功徳に劣らないと考えられた。哲学分野では、キリスト教以前のギリシャ哲学には個人も全体もあったが、中世1000年間の神権による抑圧を経て、「個人意識」と「全体への反抗」に対する西洋哲学の執着が引き起こされた。中華文明は神権の圧迫を受けたことがなかったため、中国哲学は個人意識に対する執着がなく、全体の秩序をいっそう重視した。

現代の西洋の政治で国家を悪と見なす「消極的自由」の精神は、キリスト教における「神の国」と「地上の国」の分離に由来する。キリスト教は「ローマの国家」を悪と見なした。後にカトリック教会も「悪」と見なされ、宗教改革で攻撃された。「衆生は皆、罪人」というこの世では、神を除き、「人」で構成されたいかなる組織にもほかの人々を導く資格はなかった。私有財産権を保護するジョン・ロックの「制限された政府」から、一般意思に基づくルソーの「社会契約による政府」まで、さらにアダム・スミスの「夜警国家」まで、全ては「国家の悪」を防ぐためのものだった。

一方、中華文明は「国家の善」を信じてきた。儒家は、人間性には善も悪もあり、優れた人物を手本としさえすれば、常に自己改造を通じてより良い国家を建設できると信じた。漢朝が儒家と法家を同時に用いた後に生まれた繁栄の時代は、人々の記憶と憧れを通じ、「素晴らしい国家」をつくる信念に転化し、歴代王朝に受け継がれた。

 

555年に建てられた大相国寺(河南省開封)。古代中国には「相国寺」「護国寺」と命名された多くの寺院があり、宗教と国家の関係を反映している(写真提供・潘岳)

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