秦漢とローマ(最終回) 異なる文明に学び高度化を

2021-07-07 10:50:48

潘岳=文

 

潘岳 中央社会主義学院党グループ書記

1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史学博士。中央社会主義学院党グループ書記、第1副院長(大臣クラス)。中国共産党第17、19回全国代表大会代表、中国共産党第19期中央委員会候補委員。

 

史実に反した「東洋的専制」批判

現代中国四大歴史家の一人といわれた呂思勉は「秦漢の時代は確かに古代から今日に至る転換の大きな鍵だった」と述べた。この転換に対し、「封建制から郡県制への進歩」とたたえる者もいれば、「東洋的専制主義の始まり」と中傷する者もいた。

「東洋的専制主義」の概念は当初アリストテレスによって定義された。奴隷に対する主人のように、君主が自由に人々を処罰できる無限の権力を持ち、いかなる法律にも従う必要がないことを指した。しかし、当時のギリシャ・ローマの目に映る東洋はエジプトやペルシャに限られていた。中世の欧州の目に映る東洋はモンゴルや帝政ロシアに限られ、「東洋の東」の中国は全く認識されていなかった。

欧州は当初、明・清の時代の宣教師が持ち帰ってきた情報を通じて中国を知り、一時的な中国ブームが巻き起こった。フランス国王はベルサイユ宮殿の舞踏会で中国式の服を着た。セーヌ川のほとりで民衆は争うように影絵芝居を見た。淑女は金魚を飼い、宮廷の女性らはかごに乗った。ここから二つのグループの論争が起きた。一方はフランスの啓蒙思想家ボルテールを中心に中国を崇拝したグループだ。彼は中国をよりどころとして制度を改めようとし、自分の書斎を「孔子廟」と呼び、「孔子廟主宰者」というペンネームを使った。ドイツの哲学者・数学者ライプニッツは科挙による中国の人材登用がプラトンの「哲人王による国家統治」に似ていると指摘した。重農主義を説いたフランスの経済学者ケネーは「中国の制度は賢明で揺るぎない法律の上に打ち立てられており、皇帝もまた慎重に順守しなければならない」と指摘した。

もう一方はフランスの啓蒙思想家モンテスキューを中心に中国をおとしめたグループだ。フランス国王の「絶対王政」を遠回しに批判するため、中国を東洋的専制の典型として表現した。同様に君主の統治であっても、彼らは西洋では「君主制」と呼べたが、中国では「専制」(despotism)としか呼べなかった。なぜなら、欧州の君主制には貴族と教会による制約があったが、中国にはそれがなかったからだという。彼らは中国の君主に制約を課したのは大規模な文官体制だったこと(「皇権は士大夫と天下を共にする」)を知らず、宰相権の分離による統治、詔勅を拒否する封駁、史官による監督、皇帝をいさめる諌議などの制度設計を知らなかった。文官制度と末端の政権が中国と西洋諸国の統治体系の根本的な違いだ。モンテスキューはまた、中国とモンゴル帝国を共に「東洋的専制」として批判した。たとえ西洋の君主の暴政であっても、はるかに「東洋的専制」に勝ると彼は述べた。ドイツの哲学者ヘーゲルはその後、歴史は東洋から始まり西洋で終わるという歴史観を発明した。東洋はもとより立ち遅れ、停滞し、奴隷のように酷使され、西洋はもとより進歩し、自由で、文明が開けていたとする見方だ。中国を論評したこうした大家たちは宣教師の話を聞きかじっただけで、誰も中国に行ったことがなく、誰も中国語を読めず、誰も中国の歴史を研究したことがなかった。ひいては「東洋文明」の種類がどれだけあるのかも知らなかった。

「東洋的専制」のほかにも、中国に対する大家たちの誤った判断は数多くある。例えばドイツの政治学者マックス・ウェーバーだ。彼によれば、中国は「家産官僚制」で、官僚は君主の家臣だった。また、中国は統一的な財政システムを確立しておらず、知識人が科挙を受けて役人になるのは「官位と俸給」に対する投資で、「徴税請負人」になるのを期待し、定められた税額を納めた後は全てを懐に入れていたという。これは基本的な史実に合致しない。漢代以降、財政は国家財政をつかさどる大司農と帝室財政を賄う少府に分かれ、皇帝は私財で俸給を支払っておらず、官僚も皇帝の家臣ではなかった。秦朝以降、徴税は全て県・郷の末端の税吏が担当し、統一を尊ぶ大一統王朝の時代に「徴税請負人」は存在しなかった。ウェーバーが描いたのは完全にローマ皇帝と家臣、軍隊、徴税請負人の関係だ。これらの誤った判断に対し、中国の歴史家は説明したくてもそうする機会がなかった。なぜなら、西洋はあまり真剣に中国の話に耳を傾けないからだ。数百年来の現代化は一貫して西洋を中心としており、中国は常に改造され教育される周縁に置かれていた。今日、西洋が中国に注目しているのは、単に中国が工業化に成功した事実が彼らを振り返らせたからだ。

 

東西対話で世界に貢献へ

秦漢とローマは2本の異なる文明の道で、それぞれに全盛期と低迷期があった。私たちは他人の全盛期を自分たちの低迷期と比較してはいけないし、自分たちの全盛期を他人の低迷期と比較してもいけない。私たちは全盛期の中から互いの優れた点を理解し、低迷期の中から互いの欠陥を理解し、そこからそれぞれ改善の道を探るべきだ。中国の歴史は全く完全無欠ではない。そうでなければ、近代で惨敗するはずはなかった。中華文明は依然として転換と高度化を必要としており、そうしてこそ時代と共に前進する能力を真に体現できる。

ローマの独特の価値観は、一定の衝突が活力を生み出せると信じたことにあった。英国の古代ローマ史家アンドリュー・リントットは「その社会は最も優秀な公民に広大な空間で自己実現すること、偉大な事業を成し遂げることを許した。限度内での活力ある衝突は創造性を豊かにする可能性があるということをその社会は受け入れていた」と指摘した。ローマの失敗は衝突にあったのではなく、衝突が限度を超え、また「一体性」で調節せず、最終的に大分裂を引き起こしたことにあった。「衝突の政治」で最大の問題は団結に外敵を必要とすることだ。西洋の歴史家たちの考えでは、ローマの政治制度が外敵を排除し、誰にも到達できない優位性と支配的地位にたどり着いたとき、均衡を保っていた全ての要素がしかるべき「限度」を超えて崩壊した。ローマの衰退はカルタゴを破って覇者になった直後に始まっていた。

両漢の独特の価値観は一体性と多元性の併存にあった。一体性は団結を保証し、多元性は活力を保証するが、一体性と多元性を同時に保つことは容易ではなかった。一体性が完全に多元性を圧倒すると、硬直化が始まる。多元性が完全に一体性を圧倒すると、分裂が始まる。秦は「法家が一切を圧倒する」ことで滅び、前漢は「儒家が一切を圧倒する」ことで滅び、後漢は上下層が同時に分裂したことで滅んだ。どのように一体性と多元性を同時にコントロールするかが中国政治の永遠の課題だ。

現実の世界では、制度自体をよりどころとするだけで成功できる政治制度は一つもない。制度をうまく生かせるかどうかは制度を運用する人々によって決まる。このため、各制度の本当の生命力は、根本的な価値観を擁護できるだけでなく、その欠陥を補える人々を途切れずに育てられるかどうかにかかっている。今日では、世界の多元性を受け入れられるだけでなく、自らの一体性を堅持できる若者世代を育てられるかどうかにかかっている。

中国は古い歴史を持つ唯一の文明ではない。ほかの歴史ある文明も「現代化」と「自己の見直し」の痛みの中で懸命に苦闘している。しかしながら、これらの文明は現代化を必ず達成するだろう。また、現代化されて一時的に覆い隠される歴史ある価値観を必ず語り始めるだろう。もし中国が西洋と文明の対話を成し遂げられれば、全ての歴史ある文明の相互融合と相互参考のために近道を切り開くことになるだろう。

 

文化交流は文明の対話の基礎だ。昨年11月、第3回中国国際輸入博覧会で

内外の文化を体験する来場者(新華社)

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