中国の五胡と欧州の蛮族(8) 中華文明の要は制度

2022-02-08 15:38:14

潘岳=文

文化で区分する西洋の誤り

西洋中心主義者たちは常にローマ帝国とフランク王国をサンプルとしてほかの文明を理解する。例えば、彼らはフランク王国の「複合的な君主権力」について次のように説明する。「カール大帝は『フランク王・ランゴバルド王』という族長の地位が主で、ローマ皇帝の地位は副次的だった。カロリング帝国は多民族の連合体で、皇帝が命じさえすれば、イタリア、フランス、ドイツに分割できた」。一部の学者はこうしたパラダイムを中国に当てはめる。例えば、米国の新清史学派の研究者は次のように指摘する。清朝皇帝も複合的な君主権力で、満州族の族長、漢族の皇帝、モンゴル人のハーン(君主)、チベット仏教の文殊菩薩の化身など複数の身分を兼ねていた。中原、東北、モンゴル、チベットの統一は皇帝の「複数の身分」を唯一の接点とし、いったん清朝の皇室が崩壊すると、各民族はそれぞれ自由に行動できた。新清史学派のこうした見方は満州、モンゴル、チベットと中原の統治システムを完全に無視している。清朝は東北で臨機応変に郡県制を推し進め、都市の中でも満漢の隔離政策を速やかに撤廃した。たとえある時期には民族内に統治権があったとしても、モンゴルの盟旗制度や西南地方の改土帰流(少数民族指導者を挟んだ中央の間接統治から官吏派遣による直接統治への転換)のように、最終的には郡県制に移行した。胡人集団の君主は自分の地位を族長ではなく、まず中国皇帝だと理解していた。これは胡漢を分けずに全中国人を支配する合法性を象徴していた。

西洋の一部の学者は文化的シンボルやアイデンティティーも使って中国史を解読する。新疆、チベット、モンゴル、ひいては東北3省も「内陸アジア」に区分し、北魏から遼・金・元・清まで、北方民族集団の打ち立てた政権の中に「内陸アジア」由来の文化的アイデンティティーを探し、「浸透王朝」と「征服王朝」の2種類の政権に分類する。彼らは遊牧民族集団に特有の風俗や儀式に基づき、これらの王朝の内陸アジア的性質を断定する。例えば、7人で持ち上げた黒い敷物の上で、北魏の権臣・高歓が北魏皇帝に皇位を継承させた「代都旧制」だ。また、モンゴルがとどめていたオルド(君主の宮殿、領地)の祭祀、遊牧国家、移動宮殿の風習、さらに清朝で盛んに行われたシャーマンの踊りや草原にさおを立てる祭天儀式などもこれに当たる。こうした断定は「儀礼」と「施政方策」をはっきりと区別していない。中華文明の核心は儀礼、風俗、芸術、生活習慣ではなく、どのような基本制度で政治を打ち立てるかという点にある。黒い敷物の上で即位するか郊祭(古代中国で皇帝が天地をまつった儀式)で即位するか、冠をかぶるか弁髪にしているか、またシャーマニズムを信仰するか仏教を信仰するか、どちらにも関わりなく、ただ天下の分割統治ではなく儒家・法家の大一統(統一を尊ぶ)を実行し、村落の神権制ではなく郡県の文官制を運用し、また民族集団に差をつけず同じように民衆に接しさえすれば、北方民族集団出身の皇帝は中国皇帝となるのだ。

 

1953年、陝西省西安草場坡で出土した北魏時代の陶人俑。服装やしぐさから、当時の中国北方の少数民族と中原の漢族の文化がすでに深く融合していたことが分かる(写真提供・潘岳)

 

夏王朝から「内陸アジア」と融合

高歓は鮮卑の古い儀式で新皇帝を擁立したが、官職制度と法律では「漢化」を続けた。北斉律は最終的に隋律・唐律に変化し、試験による北斉の官吏選抜規模は南朝を大きく上回った。

遼の王族だった耶律大石は中央アジアと新疆に敗走してカラ・キタイ(西遼)を建て、自ら「グル・ハーン」と称した。当時、中央アジアでは分封制度のイクター制が行われていたが、耶律大石はイクター制を廃止し、中原王朝の制度を持ち込んだ。行政面では中央集権を実行し、直轄領で文官制を実施し、軍隊の指揮権を中央に戻し、漢字を公式な文字とした。税収は各戸からディナール硬貨1枚を徴収するだけとし、ロシアの歴史家バルトリドはこれを中国における十分の一税だと指摘した。

元朝は中央集権の政治体制で、中央には政務を主管する中書省、地方には行中書省を設置した。文化面では各宗教が並行して発展したが、政治面では依然として儒家・法家で国を統治し、ほかの3ハン国は全て分封制度だった。フビライが1271年、『易経』の「大なるかな乾元」から取って国号を「大元」に改めた後、元朝は中原王朝に変質していった。元朝の歴代皇帝は例外なく儒教を学び、それに伴って漢民族王朝式官僚制が確立し、尊号、廟号、追号などの漢民族王朝式名称を使い、首都、宮殿、儀式、印章、避諱(実名敬避)など漢民族王朝式の法令・制度を補助的に用いた。

清代の政治制度の構築についてはさらに言うまでもなく、全ての理論と制度的措置が中華文明に由来していた。

草原の民族集団の王朝に見られた風俗・儀式は何も説明してはいない。国家の性質の変化は主に統治体系を見る必要がある。カール大帝は「神聖ローマ」皇帝の帝冠を受けたが、カロリング朝を「ローマ帝国」には変えなかった。なぜなら、フランク王国の統治体系はローマ帝国とは異なっていたからだ。これとは逆に、清朝は「剃髪易服(漢族に対する弁髪と満州服の強制)」を実行したが、もちろんやはり中国だった。なぜなら、清朝の統治体系は中国のものだからだ。

中国と「内陸アジア」はこれまでずっと融合してきた。さかのぼっていえば、夏・殷・周の三代にも「内陸アジア」があった。陝西省の石峁遺跡からは、ユーラシア草原様式が際立った人面の彫刻と遺構が出土した。殷墟の墳墓からは、草原の民族集団の影響を受けた大量の青銅器が出土した。甘粛省礼県の秦公大墓からは、秦人の民族集団の中に多くの羌人と氐人が交ざっていたことが分かった。「最後の漢人王朝」といわれる明朝には、実際のところモンゴルの遺風が多く残されていた。朱元璋の詔書の風格は元代の硬訳公文(モンゴル語からの直訳文体)だ。明代の皇帝も草原のハーン、チベット人の文殊菩薩と転輪聖王、イスラム教の擁護者という複数の身分を兼ねていた。さらには明代の漢服も元風だった。

このように見ると、長城内外の民族は全くなじみのない他者だったのか、それとも文明を共有する血族だったのか?

種族、宗教、風俗、神話で世界を区分するのは西洋文明の習慣だ。なぜなら、彼らの歴史の中で現代の文官体制が出現したのは非常に遅く、政治が社会を整理統合する伝統が乏しかったからだ。近年、西洋は「文化的シンボル」と「アイデンティティー・ポリティクス」を強化し、自分たちにも「政治的部族主義」の分裂結果をもたらしている。米国の政治学者フランシス・フクヤマは「民主社会は日増しに狭まる身分で区切られた断片へとひび割れている。この道は国家の崩壊を引き起こし、失敗に終わるだけだ」と省察する。彼は「信条式アイデンティティー」を唱え、「こうしたアイデンティティーは共通の個人的特徴、生活経験、歴史的つながり、宗教信仰の上にではなく、中心的な価値観と信念を軸として構築される。この観念の目的は、公民が国家の根本理念に賛同するよう奨励し、公共政策を利用して意識的に新メンバーを融合させることにある」と指摘する。

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