複雑な時代に身を置いた中日関係のはざまの映画人

2020-12-22 14:01:35

 

劉檸=文

1930年代に入ると、もともとは何の接点もなかった中国と日本の映画界は、戦争のために急速に交わりを深めていった。しかしこの時期に撮影された多くの「中日合作」映画は、抗日戦争勝利後にすぐに埋没してしまい、ほとんど誰も知る者がいなくなった。

40年前、映画史研究家で日本映画大学の佐藤忠男学長が、中国を訪問し映画を見た際に、こうした映画の存在に気付き、中国映画史上のこの隠された時代に注目し始めた。彼は日本のこの方面の文献資料を集中的に整理し、1985年に『キネマと砲声――日中映画前史』を出版した。同書はこの分野の基礎を築いた作品と評価されている。25年後、中国の学者である晏妮が『戦時日中映画交渉史』(岩波書店、2010年)を出版し、この佐藤の著作を基礎にさらに深く掘り下げて、国境を超えた視点で、戦争時代の中日間の互いに関係し合う映画史について新たな考察と分析を行った。

包み隠さずに言うならば、現代中日関係史上で映画の「国境越え」の原動力となったのは、まずは侵略と植民である。中国侵略政策に協力するため、日本は単独投資あるいは合弁で満州映画協会(満影)、中華電影(中華電影股份有限公司)といった国策映画会社を設立し、一連の作品を発表し、残酷で強引な戦争の思想形態の核心を気軽な娯楽に巧妙に仕立て上げ、ひいては温かな心打つ「物語」の中に溶け込ませた。その後、資源を独占して、日本占領地区での上映を行い、興行収入を得ると同時に奴隷化教育と植民統治を推進した。

当時上映された多くの「国策映画」には日本語だけでなく、中国語のものもあった。俳優も中国人と日本人以外に、李香蘭のような中国でも日本でも人気があり、その所属があいまいな映画スターもいた。こうした映画を制作した日本の映画人たちは中国映画について全く無知というわけではなく、極めて深く理解している人もいた。

注目に値するのは、この2冊の本はどちらも「孤島」だった上海で映画制作を堅持した、「中日合作」に多少なりとも参与したことのある中国の映画人に対し、程度の差はあれ、同情を寄せているということだ。晏妮に至っては序文の中で、「占領地区の中国の映画人は決して売国映画を撮影したわけではない」と明確に指摘している。

戦後、寛大な処置を受けた日本の映画人に対し、当時国策映画会社にいて映画制作に携わっていたにもかかわらず、終始さまざまな方法で声なき抵抗の態度を取り続けた才能あふれる中国の監督(張善琨、卜万倉、岳楓ら)は、最後には故郷を離れ、香港へ逃れることを余儀なくされ、この時期に撮影された作品もまた、時代の潮流にのみ込まれていったのだ。

佐藤は中国語版の「中国の読者に向けて」の中で、「この本に興味を持った中国の方々にお願いしたいのは、まず当時のこうした映画を見て、その後こうした中国人の立場の問題を研究してほしいということです。そうすればとても面白い発見があるかもしれません」と真心を込めて自分の願いを記している。 

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