「一番病」と「一刻者」

2021-09-14 15:29:50

劉檸=文

 

『戦争が遺したもの 鶴見俊輔に戦後世代が聞く』は、中国では過小評価されている本だ。日本の著名な思想家である鶴見俊輔(1922~2015年)が晩年、学者の上野千鶴子・小熊英二と対談したもので、話題は広範にわたり、かつ深みのあるものだ。中国語版出版の1カ月後、思いがけず鶴見俊輔が亡くなったという事実を考え合わせると、この本はかなりの程度、彼の一生を回顧したものだと言うことができるだろう。

鶴見俊輔はいわゆる名門の出身だ。彼の母方の祖父は明治の有名な政治家で、旧台湾総督府民政長官や「満鉄」初代総裁、東京市第7代市長を歴任した後藤新平である。父の鶴見祐輔もまた有名な政治家・作家であった。しかし、権力に迎合することなく、一貫して反エリート主義的態度を取り続けた俊輔から見ると、父の病は軽くなく、こうした病を学術的に表現し、「一番病」と呼んでいる。

「そもそも親父は、勉強だけでのし上ってきた人だったんだ。貧しい生まれで、一生懸命に勉強して、一高で一番になるところまではきた。それで後藤新平の娘と結婚したんだ。そうやって勉強で一番になってきた人だから、一番になる以外の価値観を持っていない。そういう一番病の知識人が、政治家や官僚になって、日本を動かしてきたんだ」

戦前、父親の祐輔は自由主義者・親米派として知られていて、何度も米国に講演に行ったし、ベストセラー作家でもあり、かなり注目を集める人であった。戦時中、国内の締め付けが突如として厳しくなると、すぐに転身して大政翼賛会の高官となった。戦後、連合国軍の追及を受け、公職から追放されたが、後にまた政界に復帰して、鳩山一郎内閣で厚生大臣を務めた。まさに父親の「転向」の経歴が、戦後俊輔が「転向」を研究する原点となったと言ってよいだろう。そして「一番病」の発見がなければ、「転向」研究もなかった。

彼から見ると、日本社会のエリートの「一番病」の病巣は、戦後になっても根治されなかった。「いったんこの一番病の学校システムができると、知識人の集団転向なんて現象は、当然でてきます。転向したことを意識していない転向なんだから。常に一番でいたいと思っているだけなんだ」

俊輔は自分の戦争体験の中から、「大学を出ている人が簡単に転向して、学歴のない奴のほうに自分で考える人がいる。渡辺清とか、加太こうじとか、小学校しか出ていないような人のほうに、自分で思想をつくっていった人がいる」ということを発見する。

俊輔の一生で一番重要である学術的貢献の一つが、まさにこの「転向」の研究である。結果として、『転向』全3巻は合計10万部売れた。その鋭い視線と診断の正確さから、戦後の社会に広く受け入れられたのだ。彼は自分のまたもう一冊のインタビュー集『期待と回想』の中で、「『転向』の3巻は、実際には自分の父に対する感想だ」と率直に述べている。

まさにこの「一番病」の対極に位置するがために、彼は丸山真男、吉本隆明、小田実、韓国行動派知識人の金芝河ら「一刻者」の思想家・活動家に敬意を抱いている。小熊英二が吉本隆明を例に、鶴見が評価するそうしたタイプの人を、「器用な世渡り上手の優等生とは、対極にあるようなタイプ」と指摘した時、鶴見は「そう。とにかく一番病の人はだめ」と率直に言っている。

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