詩で結ぶ仏教友好交流

2023-03-30 14:13:00

張雲方=文・写真提供

桓武天皇が794年に都を平安京(現在の京都)に移してから、明治元年の1868年まで、京都は1000年以上にわたって日本の首都であった。 

京都には、「寺が多い」「学生が多い」「祭りが多い」という特徴がある。 

松山バレエ団の清水正夫名誉団長はかつて、「京都は三歩一寺、七歩一神社」と私に話したことがある。京都市内にある寺院の数は約1700に上り、市民800人につき1寺院がある計算で、1日に一つの寺を巡ったとしても、全て回るには5年もかかる。唐の詩人・杜牧には、「南朝四百八十寺,多少楼台煙雨中」という詩句があるが、寺院の数から見れば、京都はまさしくこの句が表現しているようであろう。 

また、京都市は10人に1人が大学生で、大学生の割合が日本一という「学びの街」でもある(2020年文科省学校基本調査)。東洋文化を積み重ね、静かでゆったりとした環境、忍耐強く学問を志す気風、おおらかで開かれた考え方は、学者を育てるかけがえのない揺り籠になっている。京都大学だけでも、湯川秀樹や利根川進、野依良治、山中伸弥など、多くのノーベル賞受賞者を輩出している。 

日本で最も有名な漢学者の吉川幸次郎は京都に暮らし、マルクス・レーニン主義もかつて京都で広まった。 

京都は民俗的な行事が多く、歴史的な文化の精髄を反映している。「葵祭」「祇園祭」「時代祭」は京都の三大祭りだ。日中文化交流協会の中島健蔵元理事長から、「昔、日本には箸まつりがあった(今は復活しているようだ)」と聞いたことがある。 

歴史書によると、隋は608年、遣隋使の小野妹子の帰国に同行して裴世清を派遣した。天皇がうたげを催して裴世清ら使節を歓待し、その際に箸と一組になった食器が使われたという。もちろん、箸が日本に伝わったのは隋・唐の時代ではなく、それ以前のはずだ。 

作家の井上靖氏は、長編小説『孔子』を書いたとき、多方面から史料を収集し、私にも「中国ではいつから箸が使われるようになったのですか」と聞いてきた。中国の古詩・古文では、箸は「箸」や「筯」と書かれる。私の記憶では、思想書『韓非子』の喩老篇には「昔者紂為象箸」とある。これは、「昔、殷の紂王が象牙の箸を作った」という意味だ。つまり、その時代に箸はすでに使われてはいたが、箸が誕生した時期ではないため、しばし言葉に詰まった。 

また京都府は、創業100年以上の中小企業の数が多い。民間調査会社の昨年の統計によると、業歴100年を超える「老舗企業」は1747社で全国第4位と高位に位置している上、老舗出現率も5・15%と全国トップだ。 

京都府知事を務めた蜷川虎三氏の厚意で、私は宇治の通圓茶屋を訪れ、お茶を味わう機会に恵まれた。平安時代の1160年創業で、日本で最も古いと言われるこの茶屋は、簡素な建築と上品で調和の取れた雰囲気を持つ。私がこの茶屋をとても気に入った理由は、一休和尚が通圓家第7代目の当主と親交が厚く、よくここでお茶を飲んでいたからだ。 

日本に来て初めて日本の茶道に触れたのが通園茶屋だった。それから十数年後、すでに帰国していた私は陝西省扶風県にある法門寺の地下宮殿を見学した。そこで見た茶臼や茶釜、茶碗の無傷の唐代の茶道具一式は、現在の日本の茶道のものとまったく同じだった。 

京都の寺院は見どころいっぱいだ。かつて、京都華僑総会の林伯隽元会長から清水寺と二条城、金閣寺、三十三間堂は必ず見学するようにと言われた。 

大西良慶・元清水寺貫主は日中仏教協会の会長であり、徳が高く人望のある高僧だった。私がお会いした1976年当時すでに100歳を超えていたが、かくしゃくとし、足取りも軽かった。2016年に「重走友好路(友好の道を再び歩む)」代表団を率いて清水寺を訪問した際、大西氏のご子息が温かくもてなしてくれた。 

大西氏は1875年生まれで、「100年に一度の才徳兼備の大和尚」と評されていた。1914年、当時衰退していた清水寺は、奈良の興福寺の貫主だった大西氏を迎えた。その後、清水寺は生まれ変わり、隆盛の道を歩むこととなった。 

大西氏は中日友好にとても熱心で、1960年代初め、日本の仏教界で「日中不戦の誓い」の署名運動を展開した。61年に、日本で犠牲となった中国人の名簿を持って訪中し、供養の活動を行った。また63年には、江蘇省揚州市の大明寺での鑑真記念堂の定礎式に出席するため、再び中国を訪問した。 

大西氏と中国仏教協会の趙樸初元会長は、中日仏教界の双璧で、二人は深くよしみを結び、よく唱和詩を詠み合った。趙氏は私に「良慶大師は私の師であり、また慈父のような存在で、中日仏教界を導くともしびです」と話したことがある。 


2016年に清水寺を再訪した際、良慶大師のご子息(右から3人目)は筆者(右から2人目)らを心からもてなしてくれた 

2年後の78年初春、趙氏が中国仏教代表団を率いて京都を訪問した。そのとき、大西氏は103歳の高齢にもかかわらず、自ら駅のホームに赴いて趙老人を迎えたことを覚えている。 

趙氏がホテルに戻って間もなく、大西氏はご子息に持たせて詩を1首送ってきた。 

春雨如煙惜別情,停車黙黙仰清栄。 

待帰山水誰知識,再会必期百老生。 

喜んだ趙氏は筆を執り、返答の詩を2首書き上げた。 

その一 

迎送親労百歳人,寄潮万感一時生。 

片言自足千秋意,春雨如煙惜別情。 

その二 

春雨如煙惜別情,両邦兄弟此心声。 

与公珍重他年約,一笑櫻花満洛城。 

その後、私も心を動かされ1首したためた。 

春雨如煙惜別情,良慶樸初通心声。 

相見時難別亦難,春雨如煙惜別情。 

 

76年に京都と大西氏と別れを告げてから、またたく間に40年余りが過ぎた。だが、あのとき、大西氏が私の手を握り言われた言葉――「縁者心明、施主淨土」は、悟ることのできない禅語として今でも覚えている。 

 

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