孫文ゆかりの地 熊本県荒尾

2023-04-20 10:19:00

張雲方=文写真提供


孫文(中列中央)は1913年、熊本県荒尾の宮崎家を訪れ、滔天(孫文の右)らと記念写真に収まった

州に取材に行った1976年、中国革命の先駆者である孫文(孫中山)(1866~1925年)がかつて身を潜めていた熊本県の荒尾(現荒尾市)にぜひ行ってみたいと思い、同地を訪れた。 

中国大陸などを放浪した宗方小太郎(1864~1923年)の『宗方小太郎日記』によると、柿が熟した1897(明治30)年1120日頃、孫文は初めて有明海沿岸の小寒村である荒尾を訪れた。革命が頓挫した後、孫文が日本に渡った目的は二つある。その一つは避難。二つ目は資金を調達し、「民族主義、民権主義、民生主義」の旗を再び掲げ、帝政を覆し、新中国をつくり上げることだった。 

孫文と社会運動家の宮崎滔天は同じ信念を持ち、心を通わす親友だった。孫文は滔天と知り合ってまだ2カ月だったが、荒尾の滔天宅に避難した。当時この家に滔天は不在で、留守を守る滔天の妻らがいるだけだったが、それでも安心できる場所だった。 

孫文と滔天の出会いは少々ドラマチックだ。 

滔天は3番目の兄の弥蔵から初めて孫文の名を聞き、中国革命の状況を知った。弥蔵は中国の支持者で、中国の文化に憧れていた。中国に渡航するために、わざわざ中国人の集まる横浜に行き、中国人が経営する商店で働き、中国人の生活を体験し、中国語を学び、中国の風俗習慣を理解しようとするほどだった。弥蔵は横浜で中国革命の先駆者である陳少白と知り合い、親交を深めた。 

弥蔵は陳少白から、「孫文こそが中国の偉人であり、希望である。中国革命を知るためには、孫文を訪ねなければならない」と聞いた。だが残念なことに、弥蔵は孫文に会うことなく病死してしまった。その後、滔天は弥蔵の名刺を持って陳少白に会いに行った。陳は滔天を弥蔵と間違えたという笑い話もあったが、二人はすぐに意気投合し、出会うのが遅過ぎたことを嘆いた。 

滔天が再び横浜の陳少白宅に行った際、あいにく陳は革命のことで台湾に行っていた。使用人は「主人は留守で、米国からの特別なお客様がお泊まりですが、散歩にお出掛けです」と滔天に伝えた。 

米国からの特別な客と聞いて滔天は、それは噂の孫逸仙(孫文)ではないかと好奇心に駆られた。翌日、滔天は早々にまた陳氏宅を訪ねた。客人はいたが、まだ寝ていた。使用人は彼を呼び起こそうとしたが、滔天はそれを止めた。するとほどなくして、寝ぼけ眼でパジャマ姿の、顔も洗っていないその客人が現われた。来客がいるのに気付くと軽くうなずき、英語で「おはよう、ありがとう」と言って滔天を客間に案内した。 

二人は向かい合って座った。身なりを気にしないこの客人は、自分が思い描いていた姿とは大きくかけ離れていたので、滔天は少し驚き失望した。滔天から渡された名刺を見た客人は、陳少白の紹介を思い出し、旧友に再会したような親しみを感じたようだった。 

顔を洗い着替えてきた特別な客人――孫文は、堂々とした風采で表情は生き生きとし、全くの別人だった。滔天と話をすると、「三代の治」と呼ばれる中国最古の王朝「夏周」の治世から当時の「共和」制や、宗教から哲学、民生から国家体制、西洋から東洋まで、孫文は天下を治めることについて縦横無尽に語った。その論理は明快で深く、一言一句が珠玉のように貴く、奥深い道理を分かりやすく説いていた。それを聞いた滔天はハッと悟り、たちまち孫文に魅せられてしまった。滔天は心の底から感服し、一生彼に付き従い、艱難辛苦も辞せず、全身全霊をささげることを決意したのだった。 

それは1897年9月初めのことだった。 

2カ月後、孫文は滔天が外出して不在の宮崎家を一人で訪れた。留守番をしていたのは滔天の妻槌子と次兄民蔵の妻美以で、それぞれ当時27歳と28歳。中国からの客をもてなすのは初めてだった。二人の嫁はどうもてなせばよいか慌てたが、茶を入れたり、風呂を沸かしたり、寝床を整えたりと、孫文を丁重にもてなした。二人は中国料理は作れなかったが、孫文が滞在した1週間、焼き魚や焼き鳥、刺身、天ぷら、寿司、ウナギのかば焼き、すき焼きなど、作れる限りの最高級で最高においしい日本食を全て出した。どんな料理を出しても、孫文は「うまい!」と絶賛した。 

孫文は鶏肉とウナギが好きだったので、槌子と美以は毎日トリを1羽締めた。ウナギのかば焼きと焼き鳥を焼いたときは、頭や顔がすすまみれになり、つい孫文が吹き出してしまうこともあった。だが、二人の嫁は恥ずかしそうにほほ笑み、頬を赤くするだけだった。ただ、刺身は孫文に合わなかったようで、食べたら下痢をしてしまった。だが滔天の長男龍介の著書『父滔天のことども』(1943年刊行)によると、辛亥革命が成功し、滔天が家族を連れて孫文の元にお祝いに行ったとき、孫文は槌子に「荒尾の刺身はとてもおいしかった」と話していたという。 

こうして、孫文は荒尾という異国の地で、特別で忘れられない32歳の誕生日を迎えた。 

孫文が再び荒尾を訪れるのは1913年だ。辛亥革命の成功の後、憲政を堅持する孫文は大統領の職を辞し、鉄道建設の資金調達とパートナー探しのために日本にやって来ていた。一人きりで初めて荒尾に来たときとは違い、今回は側近の戴天仇、袁華選、何天炯らの政治家や、実業家の宋耀如など多くの従者を連れ、道の両側は出迎えの大勢の人であふれていた。滔天も東京から長崎に駆けつけて孫文を出迎えた。 

時は流れて1976年。福岡華僑総会の林其根元副会長と熊本県職員の案内で、私は当時、荒尾市にあった孫文記念館(現在は廃館)を見学した。記念館は荒れ果てて、ぼろぼろだった。同館の横には宮崎家の墓地があり、市内の中央公園には孫文と滔天の記念碑が建っていた。 

滔天の旧居に足を運ぶと、この世の移り変わりというものをつくづく感じた。かつての屋敷は残されており、中庭の梅の木は変わらず青々としていた。当時、孫文が座って読書にふけっただろう梅の木の側にある石の腰掛けもそのままだったが、座る人は変わっていた。許可を得て、孫文が当時泊まっていた部屋に入った。東南向きの6畳と8畳の2部屋だ。二間続きで、障子で仕切られていた。当時、孫文は床の間を背に座り、槌子や美以からお茶や食事などのもてなしを受けた。 

荒尾を離れ、すぐ北にある三池港(福岡県)の岸壁に立つと、目の前には中日の友好交流を見守り続けた有明海が広がっていた。中日の友好は、まさにとうとうたる大海のように、激しく流れて止まない。 

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