鄧穎超副委員長の訪日を振り返る(下) 周総理の詩碑が嵐山の名所に

2025-03-31 11:17:00

張雲方=文写真提供

 1979年4月16日は鄧穎超氏の訪日において最も盛り上がった一日で、周恩来総理記念詩碑が京都の嵐山で除幕された。 

 19年の春、周恩来氏は雨の中、嵐山を遊覧し、中日関係史上の名作となる『雨中嵐山』を書き残した。 

 雨中二次游嵐山, 

 両岸蒼松,夾着幾株櫻。 

 到尽処突見一山高, 

 流出泉水緑如許,繞石照人。 

 瀟瀟雨,霧蒙濃, 

 一線陽光穿雲出,愈見姣姸。 

 人間的万象真理,愈求愈模糊, 

 ――模糊中偶然見着一点光明, 

 真愈覚姣姸。 

 (雨の中を二度嵐山に遊ぶ 

 両岸の青き松に いく株かの桜まじる 

 道の尽きるやひときわ高き山見ゆ 

 流れ出る泉は緑に映え 

 石をめぐりて人を照らす 

 雨濛々(もうもう)として霧深く 

 陽の光雲間より射して 

 いよいよなまめかし 

 世のもろもろの真理は 

 求めるほどに模糊とするも 

 ――模糊の中にたまさかに一点の光 明を見出(みいだ)せば 

 真にいよいよなまめかし 

 蔡子民訳) 

17年9月、19歳の周恩来氏は「中華が世界で飛躍するときに再会しよう」という純真な心を抱いて、日本に渡った。19年4月1日から、彼は京都に10日間滞在し、『雨中嵐山』『雨後嵐山』『游日本京都円山公園(日本の京都の円山公園に遊ぶ)』『四次游円山公園(四度円山公園に遊ぶ)』の4編の詩を書いた。 

76年、周恩来氏の逝去を受けて、日本の友人は嵐山に『雨中嵐山』の詩碑を建て、日中両国民の友好に全力を尽くした偉人を記念しようと提案した。79年1月、日本で周恩来総理記念詩碑建立委員会が正式に設立され、95歳の吉村孫三郎氏(日本国際貿易促進協会京都総局会長)が委員長を務めた。石材は京都鞍馬山の名石鞍馬石が選ばれ、碑の高さは2で、碑文は全国人民代表大会常務委員会副委員長の廖承志氏が記し、京都の石材企業「澤吉」が制作の栄誉を得て、ベテラン職人の高成芳三郎氏(78)と植村正二郎氏(62)が彫刻を担当した。 

石碑は嵐山の大堰川に架かる渡月橋のはす向かいの亀山公園山頂に設置された。ここは西に嵐山を望み、東に京都を眺めることができる。山の斜面にはオオヤマザクラがいくつかあり、麓には有名な旅館の嵐亭がある。この1年前、廖承志氏は鄧小平氏と共に嵐山を訪れ、日本側の招きに応じて、嵐亭のゲストブックに詩句を書き残した。 

 天高江戸正秋風,煙雨京都葉正紅。 

 大堰河辺人越艶,嵐山楼閣看新楓。 

 (東京は天高く秋風が吹き 

 霧雨の京都では葉が赤くなっている 

 大堰川の河畔の人々は 

 ますます色鮮やかになり 

 嵐山の楼閣からは新楓が見える) 

除幕前夜、京都は小雨が降り続いていた。だが除幕の時間になると、雨がやみ、まるで周総理が『雨中嵐山』で「雨濛々として霧深く 陽の光雲間より射して いよいよなまめかし」と詠んだ通りになった。この日、鄧穎超氏と家族のように親しい劇団「新制作座」団長の真山美保氏が女性団員を鄧穎超氏の周りに集めて、「周総理和我們親又親」を中国語で高らかに歌った。少林寺拳法創始者の宗道臣氏は、自ら弟子を連れて鄧穎超氏のために護衛の任務を担った。詩碑の周りはサクラが満開で、人々の顔をピンクに染めていた。 

鄧姉さんはあいさつの中で、「初めて嵐山に来ましたが、知らない場所ではない気がして、親しみを感じています。嵐山や円山が世界的に有名な観光地で、サクラが咲く季節に来たからというだけでなく、この景色と感情が私の思考を60年前に引き戻すからでしょう。60年前の4月5日、私の夫周恩来は、京都の嵐山と円山を遊覧し、素晴らしい印象を受けました。特に美しいサクラが短い間に咲いて散るのを見て、啓発を受け、この世の変化の法則の真理を悟りました。『雨中嵐山』はまさにこのような状況で書かれたものです」と語り、さらに「周総理は生前よく日本の友人に、自分の願いは、できるだけ早く中日平和友好条約を締結し、中日友好が代々伝わるようにすることだと話していました。詩碑の建立は、中日友好が前進していることを説明しており、うれしく感じています」と述べた。 

セレモニーの一環として、サクラの記念植樹が行われた。鄧姉さんは日本の友人たちと一緒に土を埋め、水をかけ、中日両国民の友情が、植えたサクラの木のように、すくすくと成長し、美しい花を咲かせるようにと願った。 

 代表団メンバーの袁雪芬氏がその日、次の詩を書いた。 

 如夢非夢嵐山夢,英雄花下憶英雄。 

 花魂詩魂共千古,隔海東西駕海虹。 

 (夢かうつつか嵐山の夢 

 英雄の花の下で英雄を思う 

 花魂詩魂 共に永遠に 

 海を隔て東西に虹を架ける) 

 趙樸初氏も詩を1編書いた。 

 濛濛時雨三生石,藹藹停雲万古情。 

 从此嵐山留勝跡,弟兄相見更相親。 

 (濛々たる時雨 三生の石 

 藹々(あいあい)たる停雲 万古の情 

 これより嵐山に名所が残り 

 兄弟が再会するとより親しみを感じる) 

 4月17日早朝、趙樸初氏はまた別の詞を私の部屋まで届けてくれた。 

 見詩碑,陽光透層霧。 

 山川与草木,尽是会心処。 

 主人多美辞,字字出肺腑。 

 賓指中天日,光明今無阻。 

 群賢皆大悦,少長咸鼓舞。 

 共読碑上詩,石亦能言語: 

 逢花千載盛,足慰平生苦。 

 永銘兄弟情,長留友邦土。 

 忽聴歌声発,唐音雑俳句, 

 撫今懐往昔,感激抑難住。 

 悲欣集一時,泪作嵐山雨。 

 (詩碑を見ると 

 陽光が霧を通して差し込んでいる 

 山川と草木 

 心地良い所ばかり 

 主人が語る多くの美辞は 

 全て心からのもの 

 賓客が太陽を指すと 

 光を遮るものはなく 

 老いも若きも皆 

 大いに喜び奮い立った 

 共に碑上の詩を読めば 

 石も言葉を話せるよう 

 長く咲き誇る花を見ると 

 日頃の苦労が慰められる 

 兄弟の情を永遠に記し 

 友邦の土に長くとどめる 

 ふと聞こえた歌声には 

 中国語と俳句が入り交じる 

 今を見て昔を振り返ると 

 感情が抑えられず 

 悲しみと喜びが同時に湧き 

 涙が嵐山の雨となる) 

  

翌日、私が徹夜で書き上げた「从此嵐山留勝跡(これより嵐山に名所が残る)」という記事が新聞に掲載された。中国国際放送の日本駐在記者蘇克彬氏も記事を書いたが、紙面の関係で掲載されなかった。一緒に取材していた先輩の丁拓氏(新華社東京支社社長、延安時代のベテラン記者)と呉学文氏は冗談めかして、「从此嵐山留勝跡,从此小蘇的文章無蹤跡(これより嵐山に名所が残り、これより蘇くんの文章は痕跡がなくなった〈文章を電報で送ったが採用されなかったことを指す〉)」と言った。 

鄧姉さんは4月8日に日本に到着し、19日に帰国した。十数日の訪問中、私と人民日報随行記者の梁麗娟氏は『人民日報』に「櫻花時節践約来(サクラの季節に約束を果たす)」「一見如故 処処春風(一見旧知のごとし 至る所に春の風)」「世代結芳隣(代々隣国同士を結ぶ)」「从此嵐山留勝跡」「情深意長話当年(友情は深く長く 当時を語る)」の5本の記事を前後して発表した。 

今でも私の寝室の本棚には、鄧姉さんの訪日を記念するいくつかの品物が大切に置かれている。カバーに「祝周恩来先生詩碑建立記念」と印字された日本国際貿易促進協会京都総局制作の使い捨てライター、関西地区の鄧姉さん歓迎会のメニュー、日本で特別に発行された鄧姉さんの訪日記念切手。これら全てに私の生涯の変わらない記憶が宿っている。 

鄧穎超氏は帰国する前、日本国民の深い友情を忘れず、特別に人に頼んで北京の自宅――中南海西花庁からカイドウの花を数束摘んできてもらい、お土産として、日本の古い友人たちに贈った。 

 

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