「中日友好の船」訪日エピソード(1) 春帆楼で新章を記す

2025-04-17 14:14:00

張雲方=文写真提供 

穎超全国人民代表大会常務委員会副委員長の訪日代表団を見送った後、続いて私は廖承志副委員長が率いる「中日友好の船」訪日代表団を迎えた。 

同代表団は各省市代表と中央各機関代表で構成され、総数600人超、新中国の歴史上、最大規模の訪日団だった。夜間に航行し、団員は船に泊まって、昼間に下船訪問したので、「夜行昼訪」と称された。 

友好の船訪日団の団長は廖承志氏、最高顧問は粟裕氏だった。副団長には李頡伯氏(元中国共産党中央弁公庁副主任)、曹志氏(元国家計画委員会責任者)、王西萍氏(元第二機械工業部航空工業局責任者)、姚進氏(元財政部副部長)、劉毅氏(元商業部部長)、郭献瑞氏(北京市副市長)、孫平化氏(中日友好協会秘書長)がいた。 

友好の船の訪日派遣は廖承志副委員長の考えだった。1978年と79年、鄧小平副総理の訪日、中国政府の経済視察団の訪日視察、鄧穎超氏の訪日に伴って、中国の改革開放の春風が全国を席巻した。しかし、長年の閉鎖的な状況により、改革開放に対する人々の認識にはまだ大きな差があり、より多くの人を海外に行かせ、視野を広げ、思想を解放し、改革開放推進の歩みを加速させることが切実に必要とされていた。この理念に基づいて、廖承志氏は、各省代表が参加し、各分野に関連し、総数600人を超える友好の船の訪日を提案したのだった。 

廖承志氏を私たちは習慣的に「廖公」と呼んでいた。彼は中国革命の先駆者廖仲愷氏の息子で、日本で生まれ、日本の乳母に育てられ、毛主席は彼を「宝貝(宝物)」と呼んでいた。72年、中日国交正常化交渉の際、毛主席は田中角栄首相に冗談めかして、「彼は日本生まれですから、今回、皆さんは彼を連れて帰ってくださいね」と言った。田中首相は「廖先生は日本で名声が高いので、もし参議院全国区に立候補したら、きっと当選しますよ」と返した。 

廖公は中日民間交流の基礎を固めた人だ。彼は中央外事グループ副グループ長(グループ長は陳毅副総理)兼国務院外事弁公室副主任(主任は陳毅氏)だった。当時、中国の対日交流チームには「両公」と「四大金剛」がいた。両公とは廖公と日本の貴族西園寺公一氏、四大金剛とは趙安博氏、王暁雲氏、孫平化氏、肖向前氏で、廖公は総元締めだった。 

79年5月9日に中日友好の船は下関港に入港した。 

下関は、中国近代史上、消し去ることのできない名前で、中日関係において避けることのできない存在だ。1895年4月17日、敗戦した清政府の代表李鴻章がここで国家を辱め国民を害する「馬関条約(下関条約)」に調印したからだ。 

朝8時半、下関港に大きな太鼓の音が響き、海岸の群衆から歓声が上がる中、一隻の巨大な船がゆっくりと人々の視界に入ってきた。明華号は中国の訪日代表団600人余りを満載して、夜間航行を経て、順調に入港した。 

9時、歓迎式典が始まった。空中では、ヘリコプターが色とりどりの紙をまき、色鮮やかな三つの巨大なバルーンには、中日友好の船を歓迎するスローガンがつり下げられていた。海上では、カラフルなリボンを掛けたたくさんの船が、花束を持った和服姿の日本の老若男女を載せて、明華号に向かっていた。埠頭では、800人余りの下関市民が、下船する中国の友人たちを歌や踊りで迎えた。 

山口県知事の平井龍氏、下関市長の泉田芳次氏ら地方要人が先を競って明華号に乗船し、下船する廖公を迎えた。西園寺公一氏、黒田寿男氏(日中友好協会会長)、駐日中国大使の符浩氏も東京から駆け付けて出迎えた。 

山口県中日友好の船歓迎委員会会長の岸本考二氏は歓迎のあいさつで、「中日友好の船の最初の訪問地として、私たちは日中友好の増進と中国の四つの現代化の実現のために微力を尽くせることを非常に光栄に感じています」と述べた。廖公は、「中日関係史上、中国の15の省自治区からの600人余りの代表が友好の船に乗り日本を訪問したのは、初めてのことです。これは歴史的意義のある友好交流で、中日関係史上に新たな1ページを残すでしょう。私たちは強い学習意欲を持って来ています。最大の努力を尽くし、学んだ先進的な経験と、日本国民の深く厚い友情を持って帰るつもりです」と語った。 

夜、歓迎の夕べが始まると、廖公が次のように宣言した。「中国の青島市、武漢市、桂林市は、日本の下関市、大分市、熊本市と姉妹都市になります。これらの都市が今後、中日友好の偉業において、励まし合い、奮い立って前進し、古いものを退け新しいものを生み出し、世代友好の良縁を結ぶことを願っています」 

歓迎会で、廖公は特製の筆硯のセットを泉田市長に贈り、中国の書道家が書いた「欲窮千里目、更上一層楼(千里の目を窮めんと欲して、さらに上る一層の楼)」の掛け軸を平井知事に贈った。 

5月11日に西園寺公一氏と下関の日本の友人たちは春帆楼で懇親会を開き、廖公、粟裕氏ら中国のゲストたちを招いた。下関の春帆楼は、由緒あるフグ料理店だ。明治時代、伊藤博文はここでフグを味わい、自身の号である「春畝」から連想して、料亭に「春帆楼」という名前を付けた。 

春帆楼には「日清講和記念館」が残っており、李鴻章と伊藤博文の「馬関条約」の会議の様子を描いた油絵があった。春帆楼の左側には母子像があり、題には永遠の平和を願うと書かれていた。 

春帆楼を宴会場に選んだのは、西園寺公一氏ら日本の友人と廖公、粟裕氏が熟慮して決めたことだった。清末民初の思想家梁啓超はかつて「わが国の四千年の大夢の覚醒は、実に甲午戦争から……」と語った。 

時代は移り変わる。中国はすでに清朝のあの腐敗した政府ではないし、日本も戦前のあの軍国主義政府ではない。中日国交正常化の後、両国はさらに「中日平和友好条約」を結び、中日関係の新たな協力の幕を開いた。ここで宴会を行ったことは、歴史を回避せず、現実を正視すること、古きをたずねて新しきを知り、未来へ向かうこと、永遠の平和を願うことを意味していた。廖公は意味深長に「フグには毒があるので、チャレンジ精神が必要ですね」と言った。言いながら、透明なフグの刺身を箸でつまんで、大きな声で「食べましょう。中日友好のため粉骨砕身することを恐れずに!」と言った。 

廖公の言葉は中日の参加者たちから満場の喝采を浴びた。 

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