「中日友好の船」訪日エピソード(3)東京・永田町と目白の笑い声
張雲方=文・写真提供
東京は中日友好の船の訪問における最重要地点であり、交流の最高潮でもあった。
春のうららの隅田川
のぼりくだりの船人が
櫂のしずくも花と散る
ながめを何にたとうべき
1979年5月18日早朝、この日本中で親しまれている歌『花』が、東京の晴海埠頭に響きわたった。日本全国40余りの日中友好団体の代表と、東京都の友好関係者数千人が、中日友好の船・明華号の前に集い、旗や花を高く掲げて600人を超える中国からの来訪者を熱烈に歓迎した。
東京でのスケジュールは過密でありながら、喜びに満ちていた。代表団はいくつかの小グループに分かれ、東京都の官庁、企業、工場、そして住民を訪問した。
5月21日、日本の大平正芳首相が永田町の首相官邸にて、廖公(廖承志氏)および粟裕顧問と面会した。大平首相は「『論語』に『朋あり、遠方より来たる。また楽しからずや』とありますが、日本全国が皆さんの来訪を心から歓迎しています。中国と日本は地理的に近く、文化的にも通じ合っています。私たちは今後、より友好的で協力的な未来を築いていくべきです」と語った。さらに大平首相はこう続けた。「日本は現在、中国に対して政府による低利の優遇貸付の準備を進めており、あわせて低利の銀行融資も提供する方針です。経済および対外協力を主管する谷牧副総理の訪日を歓迎し、経済協力に関する協議を期待しています。日本輸出入銀行の竹内道雄総裁はすでに訪中し、中国側と『基本事項覚書』を締結しています」
会見の中で、大平首相はかつて張家口で調査を行った経験にも触れ、「口外」(解放前、長城の北にある張家口・承徳などの地域を指した言い方)の高粱酒が非常に印象深かったと語った。そして、「不幸な歴史はすでに過去のものとなり、日中両国は新たな章を書き始めます」と述べた。72年の日中国交正常化の経緯を振り返りながら、大平首相は感慨深げにこう語った。「当時、田中角栄首相があいさつで『ご迷惑をおかけしました』という表現を使って戦争への謝罪を示し、この言い回しに中国側が強い不満を抱いたことがありました。しかし、毛主席は面会の際、それを重く捉えずに『けんかはもう終わりましたか?』と軽く笑って言われました」。また、大平首相は周恩来総理についても言及し、「総理は私を万里の長城に案内して、『言必信、行必果』(言った以上は必ず実行し、行う以上は断固としてやる)という六字訣を書いて贈ってくださった。それに対し私は『信は万世の本なり』と申し上げました。北京から上海へ移動した際にも、周総理は終始同行してくださり、そのお心遣いは生涯忘れられません」と語った。
5月19日の夜、田中角栄前首相は、自宅の目白邸で廖公、粟裕顧問ら中国代表団を招いて宴を開いた。田中前首相は廖公と粟裕顧問を庭に案内し、廖公にこう語った。「あなたは東京の暁星小学校に通われていたそうですね。あなたの日本語は私よりも上手で、しかも明治時代の言い回しを使われるので、私たちの世代にはとても親しみが湧きます。当時、日中国交正常化の際に北京を訪問したとき、毛主席が冗談交じりに『彼(廖公)を日本に連れて帰ってくれ』とおっしゃったのですよ」。廖公はこう応じた。「あの頃、父が革命のために日本へ避難し、多くの日本の友人に助けられました。私も姉も日本で小学校に通いました。姉が書いた一篇の日本語の文章には、ある雪の日に下駄の鼻緒が切れて困っていたとき、通りかかった見知らぬ日本人の少年が、自分のひもを解いて渡してくれたことがつづられていました」
宴の席には、廖公の好物である刺身が並び、粟裕顧問の好きな唐辛子と肉の炒めもの(実際にはピーマンを使用)も用意され、にぎやかな雰囲気に包まれていた。廖公は田中氏に語った。「あなたが贈ってくださったオオヤマザクラは中国でとても元気に育っています。特に北京や天津の木は勢いよく伸び、開花の時期には大勢の見物客でにぎわっています」
日が暮れて明かりがともる頃、目白の田中邸には光があふれ、笑い声が夜の静けさを優しく破った。
新しい友を迎えても、古い縁を忘れず。
東京滞在中、廖公と粟裕顧問は、日中文化交流協会の理事長・中島健蔵氏の自宅も訪れ、末期がんを患う中島氏を見舞った。中島氏は日本文学界の重鎮であり、東京大学を卒業後、42年に応召され従軍記者として任務に就いた。その後、『後衛の思想――フランス文学者と中国』や「華僑の母――シンガポールの悲劇」(『昭和時代』の一章)などを著し、歴史を記録しながら戦争への憤りを表現した。戦後は、日本文芸家協会や日本ペンクラブの再建を主導し、日本比較文学会や日本著作権協議会の創設に関与。55年には新日本文学会幹事会の議長に就任した。翌56年、中島氏は日中文化交流協会を設立し、初代理事長に就いた。日本の右翼勢力からは、弾丸入りの脅迫状が自宅に送りつけられ、「中国との交流をやめろ」と迫られたこともある。しかし中島氏は中国の友人にこう語った。「脅迫など私には通用しない! もし万一、私に何か不幸が起きたら、妻のことを中国の友人にお願いしたい」
廖公と粟裕顧問の来訪に当たり、中島健蔵氏は、夫人と日中文化交流協会の事務局長・白土吾夫氏の支えを受けながら玄関先に出て迎えた。中島氏は力強く語った。「私はそう簡単に天国へ行くつもりはない。日中両国の友好のために、まだまだなすべきことがあるのです」。それに対して廖公は冗談交じりに応じた。「茅台酒を一緒に飲むために、皆が中国であなたを待っていますよ!」。また、廖公と粟裕顧問は、日中友好議員連盟会長・浜野清吾氏の自宅を訪問した。彼が中日平和友好条約の締結に際し、100人を超える日本の国会議員を率いて、特大の餅、清酒、そして赤飯を携え、北京の人民大会堂で盛大な祝賀行事を行ったことについて、称賛の言葉を贈った。
さらに両名は、東京滞在中に日本の元首相・福田赳夫氏および元外相・園田直氏の招待を受け、彼ら主催の宴席にも出席した。中日平和友好条約の締結に至るまでの困難を回顧しながら、廖公は福田氏と園田氏に対し深い感謝の意を示し、「お二人は中日友好の功労者です」とたたえた。福田氏は、自身の息子である福田康夫氏を廖公に紹介し、「どうかご指導を」と頼んだ。
その後、廖公と粟裕顧問ら一行は、創価学会会長・池田大作氏、民社党委員長・佐々木良作氏、そして日中友好の「井戸を掘った人々」と称される旧友たちの遺族らも訪ねた。
また一行は、周恩来総理がかつて日本に留学していた当時に住んでいた東京・中野の「華洲園」や、彼が足を運んでいた中華料理店「漢陽楼」を興味深く見学した。72年の中日国交正常化の調印式の場で、周総理は日本の記者に向けて次のように語っていた。「若い頃に日本へ留学した際、私は東京の中野に住んでいました。今の中野は、きっと大きく様変わりしていることでしょうね」