沖縄の旅(上)夢に見た沖縄を求めて

2026-01-21 09:59:00

980年初頭、3期にわたり駐日記者を務めた私が、帰国を控えた頃、中国の駐日記者としてかつてない二つの幸運に恵まれた。一つは中曽根康弘氏(のちの日本国総理大臣)が私を招いて懇談してくれたことであり、もう一つは朝日新聞社が取材用ジェット機(当時日本で同社のみが保有していた)を用い、わざわざ私一人を沖縄取材に送り出してくれたことである。吉田実氏(朝日新聞社編集委員)が同行し、機上には3人の乗員がいた。これらは中日関係史上初めての出来事であり、私にとって生涯忘れ得ぬ思い出である。 

1月24日早朝、一筋の朝焼けが東京湾を染めた。8時、私は羽田空港に定刻通り到着した。航空部長の山越尋夫氏、機長の三野祐司氏がすでに待っていた。やがて吉田氏も駆け付けた。9時、取材機「はやて」は富士山を目指して飛び立った。彼らは私に一つの驚きを用意していたのである――上空から富士山を眺めさせることだった。 

飛行機は富士山上空を旋回し、さまざまな角度から間近にその美を堪能させてくれた。日本人は富士山を最も美しい山と見なし、「フジ」という名には「不二」の意味が込められている。日本では蓮台、玉芙蓉、白扇などの言葉でその姿を形容する。石川丈山、高野蘭亭、柴野邦彦ら詩人も「白扇倒懸東海天(白扇さかしまに懸かる東海の天)」「芙蓉突兀壓楼台(芙蓉突兀とっこつとして楼台をす)」「誰将東海水、灌出玉芙蓉(誰か東海の水をもって、あらだす玉芙蓉)」と詠んだ。中日両国はまた、人民の友好を珠穆朗瑪峰(チョモランマ)と富士山に例えてきた。空から富士を拝するなど、生涯に一度あるかないかの経験であり、私は深く幸運を感じた。 

中国史において沖縄は琉球と呼ばれた。1650年、漢文で編まれた琉球国初の国史『中山世鑑』は、隋の煬帝(604~618年在位)が羽騎尉朱寛を仙薬探索のため派遣し、この地に至ったことを記す。彼が遠くから望んだ島影は「蟠旋蜿蜒、若浮水中(うねりくねって長く続き、水中に浮かぶ龍のよう)」であったため「琉(琉球)」と名付けられたという。1429年、中山国が琉球を統一し、明朝は巴志を冊封して国王とした。以後、南方の海洋交易の多くを琉球が担い、漢文化は大いに栄えた。1458年には「万国津梁の鐘」が鋳造され、銘文には「琉球国者……以大明為輔車、以日域為唇歯……以舟楫為万国之津梁、異産至宝(琉球国は……中国とは輔車、日本とは唇歯のように互いに密接な関係にあり……舟をもって万国をつなぐ懸け橋となり、諸国の産物や宝物が満ちあふれている)」と刻まれた。『明実録』にも、明初のわずか百年足らずの間に琉球が200回以上も朝貢したと記録されている。 

1609年、薩摩藩が琉球に出兵し、国を制圧した。1879年、日本は正式に琉球を版図に組み込み、沖縄と改称した。日本では陸地に近い島を「口の島」、遠い島を「沖の島」と呼び、これが沖縄の名称の由来となった。現地の方言では「ウチナア」と発音する。 

私が沖縄に興味を持ったのは、ここが「東洋のジブラルタル」と称されるゆえんをこの目で確かめたいと思っただけでなく、鑑真和上が第6次渡航で台風に遭って琉球に漂着し、その後、鹿児島秋目に上陸した足跡を追いたいこと、また徐福の東渡が琉球に至ったかどうかの謎を探りたいこと、さらに米国から日本に返還された後の変化を観察したいという理由があった。 

出発前、私は人気を博していた映画『沖縄決戦』を観た。新藤兼人の脚本、岡本喜八の監督、東宝製作で、丹波哲郎、仲代達矢、小林桂樹、東野英治郎といった大スターが出演していた。作品は、日本軍がサイパン島で敗北したのち、沖縄を「不沈空母」として米軍と決戦しようとした歴史を描いている。1944年7月、東京市ヶ谷の大本営は、沖縄32軍を基盤に、中国の東北地方から第9師団を急遽呼び戻した。24師団、62師団、9師団、独立混成第44旅団、戦車部隊、砲兵団、海軍陸戦隊など、総勢10万もの兵力であった。司令官も渡辺正夫中将から牛島満中将に代わった。南京を攻め、多くの人々を殺りくし「魔鬼」と呼ばれたこの中将は、玉砕を誓い意気軒高であった。しかし不義の戦いは必然的に敗れる。45年3月、沖縄戦が始まり、3カ月の激戦を経て、米軍は沖縄を制圧した。牛島は切腹し、「地獄へ行く」と言い残したという。この戦いで日本軍10万が戦死し、15万の民間人が犠牲となった(沖縄住民の3分の1に当たる)。「不沈空母」は沈んだのである。 

映画の結末では、砲口に向かってエイサーを舞う狂女と対比されるように、ぼろをまとった幼い少女が茫洋たる海へ歩み入る姿が描かれる。伴奏するのは挽歌『相思樹』であった。 

72年5月15日、佐藤栄作政権末期、米国は27年にわたって統治した沖縄および大東諸島の施政権を日本に渡した。ここに中日間の釣魚島を巡る火種がまかれたのである。この年9月29日、中日両国は国交を正常化した。 

沖縄への途上、朝日新聞社は大阪で発生した火災の撮影を吉田氏に指示した。飛行機は火災地上空に差し掛かり、私も吉田氏らが低空で撮影し、瞬時に東京本社へ送稿する様子を目の当たりにし、日本の報道の迅速さに感嘆した。1130分、大分空港で給油し、1230分に沖縄へ直行、15時には県庁所在地の那覇に到着した。那覇に近づくと、機は海面すれすれを飛び、幾重にも青をたたえた海水が碧空と連なり、海と空が一色に溶け合っていた。その光景は言葉を失わせた。 

夜、朝日新聞社那覇支局は、坂の上にある沖縄民俗舞踊を上演する店で私をもてなしてくれた。席上、『沖縄タイムス』編集局長の小波津稔氏が、中国の記者が来たと聞き、沖縄唯一のビール会社が造る「オリオンビール」を取り出して乾杯してくれた。忘れがたいのは、店が二つの琉球古典舞踊を用意してくれたことである。一つは「伊野波ぬふぁぶし」で、古典女七踊りの一つとされ、尚敬王が中国の使節を迎える際に始まった演目である。舞者は紅型びんがたの衣装をまとい、花笠を手に優雅に舞った。もう一つは「千原せんばるエイサー」で、力強く明快であった。60年、嘉手納米軍基地の拡張によって千原村が消滅し、村人は「千原郷友会」を設立、「千原エイサー」が生まれた。若い男女が踊る「千原エイサー」を眺めながら、私は沖縄の人々が米軍基地と闘う現実に思いをはせた。 

こうして沖縄の第一夜、私の心は喜びに満ちつつも、どこか迷いを帯びていたのである……。 

人民中国インターネット版

 

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