漢字―共通認識の貴重なツール

2019-02-26 10:48:59

文=劉徳有

中国と日本はお隣同士。正月には縁起を担ぎ、日常の生活では箸を使って食事をするなど、文化的に多くの共通点がある。そうはいっても、やはり、異文化といっていいような相違点がたくさんあることも見逃せない。共通点を認める一方で、文化の「相違」も存在していることを率直に認めるべきではないだろうか。

ある意味では、相違点を認めた上で、互いに理解を深めて初めて、真の友好を築くことができる――そんなことを考えて、今年の連載は、中日間の文化比較を中心に、日頃考えていることをまとめてみることにした。

さて、本題に入るが、第1話としてお互いに毎日使っている“漢字”と漢字を巡る文化の違いを取り上げてみたい。

中国人と日本人は、同じ東洋の民族であり、顔つき、骨格も酷似し、漢字という共通の言語媒体を持った国同士である。特に漢字は中国、日本の両国民がお互い、何の予備知識がなくても、簡単に理解し合い、共通の認識を持ち得る実に貴重なツールである一面を見落とすわけにはいかない。 

李白の有名な詩に『山中、幽人と対酌す』というのがある。

 

両人対酌山花開, 

         両人 対酌 山花開く

一杯一杯復一杯。

         一杯 一杯 復た一杯

我醉欲眠卿且去,

         我酔うて眠らんと欲す 卿且く去れ

明朝有意抱琴来。

         明朝 意あらば琴を抱いて来れ

 

少しでも漢文の教養のある日本人なら、タイトルの「幽人」と聞けばすぐ、都会の喧騒を逃れて閑静な田舎暮らしをしている隠遁者だな、と見当がつくに違いない。ところが、米国ではそうはいかない。ある日本人が米国でこの詩を朗詠したとき、「幽人」についていくら説明しても、米国人にはこの感じがつかめず、ついには想像力豊かな一人が、「Oh! I see. It is homeless.(分かった、それはホームレスだ、失業者だ)」と叫ぶ始末だった。そして、「一杯、一杯、また一杯」の箇所にしても、中国人と日本人なら、おちょこで悠々と酒を酌み交わすイメージが自然に湧いてくるが、米国人は杯ではなく、コップをイメージしてしまうため、アルコール依存症のホームレスがウイスキーをコップでがぶ飲みしているような、誠に詩の意図とはかけ離れた想像しかできなかったようである。西洋と東洋では、こんなにも開きがあるから面白い。

 

映画『山の郵便配達』の日本語版ポスター(写真提供・王衆一/人民中国)

さて、角度を変えて日本でかなり以前に上映された中国映画で、ご覧になられた方も多いかと思うが、中国語の題名で『那山、那人、那狗』(あの山、あの人、あの犬)というのがあった。山村でこつこつ働く郵便配達人を描いたこの映画が日本で上映されたとき、題名は『山の郵便配達』に変えられた。中国の観客は『あの山、あの人、あの犬』という文学的な題名から多くの情景を連想するだろうが、原題のまま『あの山、あの人、あの犬』と直訳したならば、日本の観客にはチンプンカンプンだったに違いない。日本で題名を決めるとき、800に及ぶ候補の中から選んだと聞いたが、これは中日両国の文化的背景の相違や受け止め方の違いなどを考えて工夫されたものであり、成功した例だと思う。

 テレビのCMにも、中日両国の文化の違いを配慮して作られた例がある。例えば、インスタントコーヒー「ネスカフェ」のCMだが、日本のテレビでは、キャッチフレーズは「コーヒー飲みのコーヒー  ネスカフェ」となっていたのに対して、中国のテレビのキャッチフレーズは「味道好極了!(味は最高!)」となっている。明らかに、日本にはコーヒー飲みの通が多く、通にとってインスタントはあまり歓迎されない向きもあるので、そうした通をターゲットに「コーヒー飲みのコーヒー」というキャッチフレーズにしたのだと考えられる。しかし、中国人向けには、特に味の良さを強調して「味道好極了!」としているのが特徴であると言えよう。もし、そうした文化的背景の違いを無視して、中国の視聴者に対しても「コーヒー飲みのコーヒー」と宣伝したならば、効果が半減すること請け合いだ。

 日常使われていることわざや言葉の表現にも、文化の違いが現れている。例えば、元来良いものは条件が悪くなっても値打ちが下がらないことの例えを、日本では「腐っても鯛」と言うが、中国では、「痩せ衰えたラクダでも馬よりは図体がでかい(瘦死的駱駝比馬大)」と表現する。二つのことわざの違いの背景には、四方を海に囲まれた海洋国日本と、大陸西部に巨大な砂漠を有し、海を見ずに一生を過ごす人々が珍しくない中国との環境の違いがあるのだろう。

 

中国では大勢の人が水の中に入っている様子をよく「ギョーザを煮るよう」と形容する(Baidu

また、夏の海が海水浴客で混雑している状況を、日本人は「芋を洗うよう」と言うが、中国では「像煮餃子(ギョーザを煮るよう)」と表現する。日本ではギョーザといえばもっぱら焼きギョーザのことを指すが、中国では水餃子が圧倒的にポピュラーで、大鍋に大量のギョーザを入れてゆでる。煮えたぎった鍋の中で浮き沈みするギョーザが、まるで人がひしめき合っているように見えるというわけだ。ギョーザは日本でも大変ポピュラーになっているが、それでも人が混雑している状態を「ギョーザを煮るよう」と言ったのでは、ピンとこないと思う。いま日本の家庭で、大量の芋を洗う光景はほとんど見られなくなったが、中国で水餃子作りは日常茶飯事で、その意味でも「ギョーザを煮るよう」は、誠にリアルで現代的な表現であると言えよう。

 さて、日本はその昔、中国から漢字を輸入し、中国もまた近代に入って日本から数多くの日本製の漢字語彙(ボキャブラリー)を輸入している。そのような大量の漢字の行き来がありながら、過去、両国の間で漢字に関する限り、著作権の問題で一度たりともトラブルが起きたことはない。漢字文化は昔も今も、両国でスムーズに流通し、仲良く共存しているのである。

 

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