水村山郭 酒旗の風

2019-07-08 16:15:03

劉徳有=文

いつぞや東京を訪れた時、日本舞踊界の著名人・花柳千代先生の肝いりで、人間国宝の故・花柳寿楽師と文化交流について対談する機会があった。場所はフォーシーズンズホテル椿山荘の一室だったと記憶している。そのとき、たまたま漢詩が話題にのぼり、寿楽師は「漢詩を読んでも、本当にしみじみと感銘します。……『千里鶯啼いて、緑紅に映ず』も俳句の世界ですね」と言われた。

 寿楽師がここで取り上げたのは、晩唐の詩人・杜牧(803~852年)の作『江南の春』。

 

 千里鶯啼緑映紅,        

  千里鶯啼いて 緑  紅に映ず

 水村山郭酒旗風。        

  水村山郭  酒旗の風

 南朝四百八十寺,         

  南朝四百八十寺

 多少楼台煙雨中。        

  多少の楼台 煙雨の中

(大意 江南は、いまが春たけなわ。千里四方に、ウグイスが鳴き渡り、柳の緑は紅の花に映えて、美しい。水辺の村や山陰の里には、酒屋の旗が春風にはためいている。思えば、南朝の都だったころ、この地方は四百八十寺と言われるほどたくさんの寺院が立ち並び、仏教が栄えたところだが、いまも多くの堂塔、楼台がけぶる春雨の中にかすんで見える)

 春光あまねき江南ののどかな風景が巧みに歌われたこの詩は、日本人にずっと親しまれてきた。

 寿楽師が「俳句の世界ですね」と言われて思い出したのが、 江戸中期の俳人・嵐雪(1654~1707年)の句。

 

 鯊釣るや水村山郭酒旗の風

 

 この俳句は、ほかでもなく、「千里鶯啼いて緑紅に映ず」の後に続く一句「水村山郭酒旗の風」をそのままそっくり「頂戴」して、中七と下五を構成し、「奇句」とさえ言われる名句となっている。上五の「鯊釣るや」以外は、杜牧の詩句を「拝借」し、しかも原作の春景を秋興(鯊は秋の季語)に変えているが、少しもちぐはぐな感じを与えず、さすがだと思った。秋の日差しを浴びながら鯊釣りに興じ、その背後に水村山郭が控え、酒屋の旗が風にひらめいている風景をほうふつさせるばかりか、帰りには酒屋に寄って一杯でもやるか、というような情景を連想させるほほえましい句である。

 

日本では大衆的な釣魚として知られる鯊(ハゼ)(劉徳有氏提供)

蛇足になるが、日本では「鯊」は「沙魚」とも書き、最も大衆的な釣魚で、河口や浅場に多く、秋の彼岸から釣り人が押し掛けるそうだ。天ぷらの材料になり、佃煮にもされると聞いているが、この「鯊」(sha)を中国語で読むと、「はぜ」ではなく、「サメ」とか「フカ」になって大変なことになる。

 ところで、日本語の「はぜ」がどんな魚か、実は私にもよく分からない。中国の辞書を引いても、「蝦虎魚」としか書いておらず、まるで見当がつかない。なぜ「蝦虎」なのか。よく飛び跳ね、体の色が淡黄色で、胸びれが黄色いからなのか。そういえば、日本語で、「鯊」は正確には真鯊といい、黒鯊、赤鯊、飛鯊、虎鯊などと種類が多く、字面を眺めていると、中国語で「蝦虎魚」と名付けた理由もなんとなく分かるような気がする。

 「鯊釣るや」は秋を詠んだ句であるが、嵐雪には梅を詠んだ人口に膾炙する名句もあることを聞いた。

   

 梅一輪一輪ほどの暖かさ

 

 ある時、日本の友人から届いたはがきに、この句が書かれてあった。

 そのはがきに印刷された美しい絵を見ながら、いろんな情景が頭に浮かんできた……。

 寒梅が一輪咲いた。その花を眺めていると、次第に近づいてくる早春の暖かさが、もう感じられる。春を待つ人の心情は、一輪の梅に、はや言い知れぬときめきを覚える。「梅一輪、一輪ほどの」の語調が、ゆっくりと、しかし確実に訪れる春の歩調を感じさせてくれるこの句は、私に言わせれば、大変に情緒的であり、日本的である。

 「梅花開一朶,春意濃一分」と中国語に訳してみたが、われながらぎこちない感じがする。

 しかし、同じ梅でも、毛沢東が1961年12月に詠んだ「詞」『卜算子 · 梅を詠ず』はスケールが大きく、中国的であると言うべきかもしれない。

 

 風雨送春帰,    風雨  春の去るを送り

 飛雪迎春到。    飛雪  春の来るを迎う。

 已是懸崖百丈氷,   懸崖に百丈の氷凍てつけるに

 猶有花枝俏。    なお 花の枝のうるわしき。

 俏也不争春,    うるわしけれど  春をわがも      のとせず

 只把春来報。    ただ春の訪れを告ぐるのみ。

 待到山花爛漫時,   山の花  咲ききそう時いたらば

 她在叢中笑。    はなむらにありて微笑まん。

(訳・北京外文出版社)

 

同じ梅を描いた作品からも、中日両国の文学に対する考え方の違いなどが感じられる(劉徳有氏提供)

 一見、自然の情景を詠んだように見えるが、この詞を書いた動機は、当時米国などに包囲されるという厳しい国際環境の中で、「動揺せず寒気を恐れぬ梅の花となる」よう中国人民を激励するため、と郭沫若氏は解説している。

 この例からも、中日両国の文学に対する考え方や文学の観賞価値の違いを感じさせるものがあるように思われる。

 物の本によると、日本で多くの漢詩文が俳句に引用されるようになるのは、芭蕉の時代に入ってからだそうだが、最も大きな原因の一つは、この時代に漢文が盛んになり、朱子学が提唱されたからだと言われている。

 芭蕉をはじめ、門弟たちが積極的に漢詩の内容や詩想、表現などを俳句の中に融合させ、俳句を鑑賞に耐えうる文学の地位まで引き上げるために、いろいろと句法を工夫したようだ。

 『嵯峨日記』によると、芭蕉は早くから杜甫に傾倒し、『杜工部集』を座右から離さず、また常に机の上に『白氏文集』を置いていたそうだが、これは芭蕉が漢詩文に興味を持っていたことの証拠であろう。確かに芭蕉の俳句には漢語を用いたものは多い。しかし、同時代の他の俳家に比べて、直接漢詩から導入したものが案外少ないのはなぜだろうか。

 

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