外来語の氾濫

2020-12-07 14:17:11

劉徳有=文

国際交流基金のフェローシップに招かれ、しばらく日本に滞在することになった1998年の春。東京・神楽坂6丁目にある「緑風公館」に3カ月ほどお世話になった。

「公館」というと、中国人の感覚では、旧中国の高官の住むぜいたくなお屋敷を想起するが、実は、日中友好会館所属のアパート風の宿泊施設で、間取りは2LDKと1LDKの2種類あり、私たち夫妻にあてがわれたのは、2LDKだった。管理人は親切に、

「この部屋は『ニー・エル・ディ・ケー』といって、寝室に応接間が付いています」

と教えてくれた。

私は備え付けの説明書に「1LDK」と書いてあるのを見つけたので、

「この、イチ・エル・ディ・ケーは?」

と尋ねてみた。すると、管理人はニッコリ笑って、

「それは、イチ・エル・ディ・ケーではなく、ワン・エル・ディ・ケーです」

と私の質問を訂正してくれたものだ。

同じ「LDK」でも、「2、3、4」は「に、さん、よん」と読んで、「1」だけは「ワン」と読む。日本語とはなんと摩訶不思議な言葉か、と思うのはこんなときである。日本人は案外このことに気付いていないらしく、ある日本の友人が、「外国人に指摘されてみれば、なんかヘンですね。おもわず吹き出してしまう」と言っていた。

日本ではよく、今や「外来語氾濫の時代」だと言われているが、日本語の中に占める外来語のおびただしさは、確かにすさまじい。日本人自身がそう思っているくらいだから、日本語を勉強しようとする中国人にとってはなおさらで、外来語のマスターはそれはそれは大仕事だ。

日本独特の「和製語」に変形した外来語、例えばマザコン(マザーコンプレックス)、ベア(ベースアップ)、マッチポンプがあるかと思うと、スマホ(スマートフォン)、マスコミ(マスコミュニケーション)、コネ(クション)、ハン(ガー)スト(ライキ)、リモ(ート)コン(トロール)のような省略外来語も枚挙にいとまがないほどたくさんあり、さらに、日本人はどういうわけか、外来語と元来の日本語にそれぞれ「分業」を持たせたりする。

 

中国で出版された『新編日語外来語詞典』には日本語の外来語約6万2000語が収録されている(写真・籠川可奈子/人民中国)

同じコメのメシでも、レストランでは「ライス」だが、料理屋では「ご飯」となり、レストランで、「ご飯ちょうだい」と注文すると、ウエートレスに「ライスですか」と聞き返される。喫茶店で「お茶」といえば、「日本茶」に間違えられ、「ティーですか」とこれまた聞き返される。「料理屋」は、日本式の料理店で、普通和食を出す。「レストラン」は西洋料理屋を指し、日本人は、日本式料理店へ行くときには、決して「レストランへ行く」とは言わない。「板前」と「コック」もそうである。両方とも料理人のことだが、頭に「ねじり鉢巻き」を締め、大きな板の前で「寿司」を握っているのが「板前さん」で、白い服を着て、頭に高い白色帽をかぶった料理人が「コックさん」。日本の踊りは「舞踊」、西洋の踊りは「ダンス」。和服に締めるのは「帯」で、ズボンやスカートに締めるのは「ベルト」となる。

しかし、だからといって、日本的なものは元来の日本語を使い、舶来のものは外来語を使うと厳密な区分けをしているわけでもない。現に「東京タワー」は「タワー」だが、パリの「エッフェル塔」は「塔」という名が付いている。ああ、分かりにくい!

日本語に外来語が多いのにはさまざまな理由があろうが、その一つに、日本語では言いにくいことでも、外来語なら容易に口に出せるということがあるようだ。

記者会見の内容を公表されては困る場合、担当者が前もって記者たちに公表を控えるようクギを刺す。そんなとき、担当者は、「今、お話した内容は発表禁止ですので」というような直接的な言い方はせず、「今お話した内容はオフレコですので」と言うのが常である。

「オフレコ」は外来語で「発表用にあらず」を意味する「オフ・ザ・レコード」の略である。しかし、日本のマスコミ界では、「オフレコ」は「発表禁止」よりもずっと言いやすく、記者にとっても抵抗感が少ないようだ。これが中国なら、単刀直入に「発表禁止」と言うであろうし、聞く方も別にどぎつい感じを受けない。

外来語のもう一つの効用は、新しい概念を表現できて、一種斬新に感じさせるというところにあるようだ。例えば、「若者」を「ヤング」と言えば、ちょっと違った感じになる。どちらも「青年」であることには変わりはないが、後者は今風の青年を指すような感じがする。また、「豪華」と「デラックス」は、どちらも豪華なことではあるが、後者はよりモダンな感覚である。

 

「東京タワー」は「タワー」だが、「エッフェル塔」は「塔」と呼ばれるのも日本語の外来語の不思議の一つだ(劉徳有氏提供)

こうした外来語の効用について、日本の新聞でこんな文章を読んだことがある。

日本人は話が金銭問題に及んだとき、それを口にするのをはばかる傾向がある。他人に頼まれて仲介の世話などをした場合、ズバリと「今度の件でいくらくれますか」と金銭を口に出すのは、どうも露骨すぎる。そこで「コミッションやリベートはどうなっていますか」と言えば聞きやすく、しかも、はるかに品よく聞こえるというのである。

日本で外来語の量が年々増え続けている原因には、もちろん国際交流の拡大、科学技術の目覚ましい発展があるが、もう一つ重要な原因がある。

それは、日本語が音標表記のため、外国語の発音を直ちにカタカナに転換できる利点があることだ。実例を挙げれば、corolla(花冠)、clip(紙ばさみ)は日本では「カローラ」「クリップ」とカタカナで表記できるが、中国語はそうはいかない。仮に「卡羅拉(音はカロラ)」「克力普(音はクリプ)」と漢字を当ててみても、さっぱり通じない。従って、「花冠、花瓣」「曲別針」と意味を訳すしか手がないのだ。外来語の取り込み方に関する限り、日本は圧倒的に中国より有利なのである。

反面、今のカタカナ語の洪水を見ると、外国語を直ちにカタカナに転換できる便利さから、日本は明治期の表意を主とした外来語吸収の伝統を忘れて、安易なカタカナ表記に走りすぎている面も否定はできまい。 

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