河原崎長十郎と『屈原』

2022-10-14 16:52:49

劉徳有=文 

端午の節句と言えば、中国では旧暦の5月5日。この節句の由来にはいろんな説があるが、一説に戦国時代の愛国詩人・屈原を記念するため、というのがある。楚の国の高官だった屈原は周りの悪党どもので、王に都を追われ、放浪の末、の淵に身を投じた日が5月5日。屈原の霊を慰めるため、民衆がを作り川に投げ込んだと伝えられており、以来この日に粽を食べる風習が民間に根付き、お隣の日本にも伝わっている。 

1942年、抗日戦争のさなか重慶にいた中国の文豪・郭沫若氏は、屈原を主人公に、五幕の史劇『屈原』を書き上げた——楚の国を秦から守れという屈原の正しい主張が反対派の王子や奸臣、王の・南后などの陰謀によって退けられ、追放・投獄の憂き目に遭った屈原の悲運を、当時の国民党の悪政と重ねる形で展開したもので、戦時下の重慶における初公演は大成功を収めている。 

この史劇『屈原』を最初に日本で演じたのが、前進座の河原崎長十郎であった。52年のことである。 

  

『屈原』の作者・郭沫若氏と河原崎長十郎氏 

河原崎長十郎(1902~81) 

東京生まれ。歌舞伎俳優、演出家。1931年、「前進座」の創立に参加。代表演目『勧進帳』『助六』『鳴神』など。『どっこい生きている』など映画にも出演。新作劇『屈原』『天平の甍』など主演。日中文化交流協会常任理事。 

「私が最初に上演したのは、昭和27年、敗戦から日本も徐々に復興したとはいえ、まだ焼け残った公会堂だとか、学校の雨天体操場にを敷いたりして、近所のお百姓さんたちが見に来るという状況でした。南后がをいじめたり、悪だくみをしていくと、本当に芝居だとは思わないで、お百姓さんたちは怒りだして、『この女狐め!』と叫びながら、手に持っていたミカンをポンポンぶつけるというようなことがありました」 

その後、55年12月、筆者が郭沫若氏に随行して日本を訪問したとき、東京で河原崎長十郎の『鳴神』を観たが、観劇後、郭氏はわざわざ楽屋に長十郎氏を訪ね、日本で『屈原』の公演を成功させたことに感謝とねぎらいの言葉をかけられた。 

60年の2月と記憶しているが、前進座創立30周年を祝って、河原崎長十郎はじめ、座の一行が中国訪問に来られた。北京新僑飯店の大ホールで、や田漢氏ら有名人の出席する歓迎会の通訳を仰せ付かり、公演の初日に長十郎の『勧進帳』を観る機会に恵まれたのもそのときだった。 

64年の秋、中日記者交換が実現したとき、筆者は中国記者の一員として東京に派遣され、以来15年間日本でお世話になったが、二、三年たつかたたないうちに、内外の情勢が急変し、河原崎長十郎氏が東京で記者会見を開き、今後は所属の前進座とは別に、条件を整えて、新しい形で舞台に立つ旨の決意を述べられたのを取材した記憶がある。 

67年9月、河原崎氏は中国に招かれ、国慶節の行事に列席されたが、この年の10月、持病の腎炎が再発し、翌年の8月まで中国で療養。帰国前に、郭沫若先生は人民大会堂で歓送の宴を催し、「日本に帰られて、どういうお仕事をされますか」と尋ねた。 

「俳優として育ってきたわけですから、やはり演劇の仕事をしたいと思っていますが、現状ではできないでしょう。もしその時が来たら、郭先生の『屈原』をらしていただきたいと思います」 

そのころ中国は「四人組」が横行していた時代だったので、郭先生は『屈原』公演については明確な返答を留保したようだった。 

一方、日本では、中国の国連への復帰を巡る国際情勢の変化に伴い、日中友好の機運が熟する中で、「長十郎君にも芝居をさせなければいけない」という雰囲気が盛り上がり、藤山愛一郎氏、宇都宮徳馬氏らはじめ多くの名士が会合を重ね、公演の早期実現を図った。 

ちょうど71年2月に藤山氏が中国を訪問するというので、長十郎は藤山氏に郭沫若氏への手紙を託した。 

  

屈原を演じる河原崎長十郎   

「日本の皆さんが、私に芝居を演らせようという機運が高まってまいりました。そこで、いつかお願いしたように、ぜひ先生の『屈原』を公演させていただきたいので、お許し願いたい」という内容だった。 

3月6日、帰国した藤山氏は長十郎に、郭氏直筆の快諾を得た希望に満ちた返信を渡した。「『屈原』につきましては、もし上演の価値があるとお認めになるならば、謹んで、上演のご成功を祈ります」 

いざ芝居を創るとなると、おのずと資金や台本、俳優などの問題が出てくる。『屈原』を原作通りに演ずると、5時間もかかるので原作者の了解の下、日本の事情に合わせて改作することになったが、筆者が東京在住のとき、ある日、河原崎氏自らが記者事務所においでになり、日本の某作家による改作後の台本を見せてくださった。あまりにも原作から離れており、商業主義的になりすぎて、別のものになってしまっていたので、長十郎氏はきっぱりとこれを断わり、郭先生の原作を短縮した形の台本を新たに作った。 

このように苦労に苦労を重ねた挙句、72年3月、東京の都市センターホールで、河原崎長十郎主演の『屈原』がついに幕を開け、大成功を収めた。長十郎の屈原はスケールが大きく、迫力に満ち、胸を打つなせりふで、観客を圧倒させた。その優れた演技は、まさに中国語で言う「炉火純青(円熟、芸術などの最高水準)」そのものであった。 

東京はじめ、日本全国の20いくつかの都市を巡回公演中に、72年9月の中日国交正常化を迎え、長十郎氏としては長年の念願がかない、何よりうれしかったに違いない。 

このときの公演に合わせて、郭沫若氏から自作の詩が贈られている。 

  

滋蘭九畹成蕭艾, 

 蘭の畑に 雑草生い茂るも 

橘樹亭亭発浩歌。 

 え立つよ 声高らかに歌う 

長剣陸離天可倚, 

 天をも支える きららかな剣もて 

劈開玉宇創銀河。 

 空を切り裂き 麗しき銀河を創らん 

  

河原崎長十郎氏はかねてから、出来得れば、郭氏を日本にお招きして、自分の演ずる『屈原』を観ていただきたいとひそかに思っていたところ、78年6月、残念ながら郭氏は他界された。氏の逝去を悼み、79年3月、長十郎は東京の「草月ホール」で追悼公演を行った。長十郎の熱演ぶりに感動した西園寺一晃氏は、感想を次のようにつづっている。 

「舞台の上の長十郎先生は河原崎長十郎ではなかった。まさに屈原その人であった。国を思う屈原、民を愛す屈原、陰険な敵に激しい憎しみを抱く屈原……舞台の長十郎先生は演技をしているのではなく、屈原になりきり、屈原の感情そのもので笑い、悲しみ、涙を流していた。……」 

この後、80年の11、12月、河原崎氏は中国政府文化部の要請で中国公演を実現し、念願の郭氏の史劇『屈原』を北京や天津、南京で初めて披露して大成功を収めている。 

 

関連文章