開拓者が生み出した海南紅茶

2017-11-30 16:39:33

須賀 努=文写真

 

中国のハワイと呼ばれている海南島! この島のイメージは当然海だと思うが、今回は3日間山の中にいた。なぜかと言えば、この海南島にも茶畑があり、紅茶が作られているからだ。ちょっと意外な海南紅茶を紹介してみよう。

農墾茶廠の歴史と今

海南島の茶の歴史は宋代まで遡るとも言われているが、基本的には少数民族が山中で作って来た。紅茶に関しては、前回の英徳と同じで、新中国成立後の外貨獲得政策に基づき、1950年代終わりに紅茶輸出基地が作られ、その生産が始まった。しかもその生産を担ったのは、農墾だった。農墾とは、日本で言えば昔の屯田兵制だろうか。朝鮮戦争までの戦闘が終わった後、兵士たちは各辺境に配置され、平時には農業開墾、有事には兵士となったのだ。この兵団が海南島にも派遣され、山中に分け入ったと聞く。

海南省の省都、海口から車で高速道路を走る。最近海南島には高速鉄道も導入され、どんどん便利になっているが、やはり海岸線が中心で、山道に入ると、かなりの時間を要する。現代でもそうなのだから、70年も前、農墾がその山中を開拓した精神はすごい。最初に訪ねた国営烏石農場嶺頭茶廠(瓊中リー族ミャオ族自治県)も1957年に作られた初期の茶工場だった。現在の経営者たちに話を聞いていると「みんなここで生まれたんだ。うちはXX師団、あそこはXX師団だ」などという声が聞こえてくる。

海南島の紅茶の歴史をここ嶺頭茶廠で勉強した。農墾による開拓が始まり、軌を一にして輸出用紅茶の生産要求が高まっていた。そこでもともとあった小葉種の他、雲南から大葉種を、そして福建からも福鼎大白などの品種を導入して、本格的な紅茶生産が始まった。嶺頭茶廠は1960年前後にできた海南最初の茶廠の1つだった。

この茶廠ではかなり早い段階からCTC方式が採用され、大量生産で輸出に貢献、1990年代半ばまでその生産が続いたという。気候的に恵まれた海南島では、ほぼ1年中、休みなく茶葉生産が可能だ。またリーフタイプは、強い甘味を出す雲南の大葉種と香気のある海南の小葉種をブレンドするなど、独特の風味を出す紅茶を生産していた。1993年海南島には50の茶廠があったというが、その内37が農墾関連の施設だったというから、如何にその貢献度が高かったが分かる。だが90年代半ばには輸出が完全に止まり、組織改革が行われ、現在は農場の一つの茶工場という位置づけとなっている。

次に行った白沙茶廠も嶺頭茶廠と全く同じ歴史を辿っていたが、現在では紅茶ではなく「白沙緑茶」というブランドで有名になっていた。この地区は数万年前に落下したと言われている隕石の関連で、水質がとてもよく、緑茶が美味しく感じられる。海南島の緑茶生産の50%以上はここで作られているらしい。

責任者の話によれば、「従来からの国営、農墾体質から脱却し、効率化を図り、生産性をあげ、他省の茶との競争に勝ち抜かなければならない。そのためには従業員の意識改革が重要。ここでは管理職より給与の高い工員がいるなど、茶作りの実績を重視している」と強調する。ちょうど今が大きな変革期なのだと実感する話だった。

50年以上前に建てられた五指山茶廠

海南茶業の中心地、五指山茶廠には創業当時の古い茶工場が残っていた。その建屋はちょっと洋風で、いかにも格好がよい。中の設備も古めかしく、ここは茶生産より、むしろ貴重な歴史遺産として、博物館などとして保存して欲しいと感じた。海口に近い南海茶廠も中心的な役割を果たして茶廠の1つだったが、今ではほぼその役目を終え、創業時の工場敷地は既に観光茶園として、再生が図られていた。ただ今でも日本の茶業者からも依頼が来るなど、本業も続いている。

新しい茶業の動き

白沙鎮の朝、有機茶園を見学した。五里路茶業では、朝から大勢の摘み手が茶葉を摘んでいた。この付近はリー(族という少数民族が多く住む地域で、昔から茶業は行われていたが、そこに有機認証という概念を持ち込み、新しい市場を開拓しようという試みが新鮮だった。10年前に土地改良に着手し、7年前に茶樹を植え、ここ数年で生産が始まった。既に欧州など世界の20カ国以上で有機が認められているという。

                                                      五里路有機茶園の屋外茶会

また五指山椰仙という本当に大自然の中にある茶畑にも足を運んだ。15年ほど前、道路もなかった山の中、竹筏を漕いで辿り着き、そこから少しずつ開墾を始めたというからすごい。茶園には100年以上前の老茶樹も見られ、まさに有機栽培で作られた紅茶には、澄んだ味わいがある。これから特色ある、品質重視の海南紅茶が生まれる予感がそこにあった。

 

 

 

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