わが家の戦争の記憶と平和への願い

2025-09-24 14:18:00

945年に第2次世界大戦が終わり、今年でちょうど80年目を迎える。 

筆者はここ2カ月の間に何度か日本を訪れ、参議院選挙の模様や戦後80年関連の記念活動を目にする機会があった。日本には戦争に関する記録が数多く残っているが、その多くは今日、メディアを通じて報じられる。 

筆者の父母は抗日戦争を経験しており、筆者が幼かった頃、しばしば両親から戦争のことを聞かされたものだった。両親もしくは一族としての戦争の記憶は、文章になっているわけでもなければ、写真や録音、映像もない。ただ語り継ぐことによってのみ、記憶として残っていくものだ。父母は戦争の記憶を意図的に忘れようとしているのか、当時のことを語る際、時として口が重くなることがあった。だが、骨身に刻まれた苦しみは、吐露せずにいられるものではない。結局は無意識のうちに言葉となって出てくるのだった。 

戦争の惨禍がもたらしたもの  

47年になって、10年ぶりにようやくお前のおばあちゃんの元に戻ることができた。そのときにはもう28歳になっていたよ」。筆者の父はふとしたとき、この言葉をたびたび口にする。 

父は幼い頃、祖父と共に上海の祟明島(当時は江蘇省に属した)から中国東北部に移り住み、祖父はいわゆる「満州鉄道」で工員として働いた。父は同地の「高等小学校」で4年生まで学んだのち、工員として働き始めた。37年、父は18歳のときに徴兵を避けるために他の地方に行き、引き続き工員として働いた。 

3710月頃、父を含めた多くの東北部の若者は徒歩や車、列車で成都に向かい、数カ月かけてようやくたどり着いた。そこで仕事を探していた際、現地政府の関係者が父に日本語ができるかと聞いてきた。父は東北部でいくつかの日本語のフレーズを学んだことがあり、少し分かると返事をすると、日本のスパイの疑いをかけられ、成都と昆明を結ぶ鉄道の調査業務員として派遣されることになった。「一緒に成都から出発した数十人のうち、無事に昆明に着くことができたのは数人だけで、大半の人は途中で病死したり、地方の武装勢力に殺されたりしてしまった」と父は語った。 

父は成都に着くまで「七七事変」(盧溝橋事変)が起きたことを知らず、漢字を少し書くことができ、いくつかの日本語の言葉を聞き取れたが、これらの理由で日本のスパイと疑われることになるとは想像すらしていなかった。父は兵隊になったわけでも、戦場で戦ったわけでもないが、日本の侵略戦争によって辛酸をなめつくした。「果てしなく続く人の背丈ほどもある仙人掌(サボテン)の中を、棒で道を切り開いて進んでいくんだけれど、うっそうとした原生林の中では、ほんの少し油断するだけで赤痢にかかってしまう。大勢の人がひとたび赤痢を患うと、二度と立ち上がれなくなった」と、父は当時を振り返って言った。 

「昆明で勝利を迎えて、ようやく家に帰ることができた」。戦争中にかけられていたスパイの疑いは晴れたが、父は無一文だったため、昆明から祟明島に戻るまでの間、働いたり施しを受けたりしなければならなかった。「祟明島に着くと、お前のおばあちゃんとおじさんが生きていると分かり、お互い見合ってただ涙を流すばかりで、言葉が出てこなかった」。父が語る戦争や離別の体験は、このように言葉少なだが、この上なく重みのあるものだった。 

祟明島に戻ってから、父はいとこなどの消息を尋ねた。兵隊になった人は戦争が終わってすでに2年経っているにもかかわらず帰っていなかった。日本による上海占領中、どうにも暮らしていけずに他の地方に移った親戚も戻っていなかった。占領地であろうと戦線から離れた場所であろうと、戦争によってあまりにも多くの罪のない人々が亡くなり、行方知れずとなった。ましてや戦闘が発生した地方の惨状は、言葉で表す術がないほどむごいものだ。戦争の惨禍は、ただ人々の暮らしを困窮させるだけでは決してない。あまたの家庭に耐え難い苦難を与え、数え切れないほど多くの人々の命を奪うのである。 

消えてなくなった村  

私の母は江蘇省常州市出身で、37年に12歳だった母は、常州市金壇県の村で暮らしていた。筆者は数年前に車で同地を訪れたが道路状況が悪く、しばらく走ると途中から車では進めなくなったため、歩かなければならなかった。無数の池の間にほんの少し広い平地があり、そこに低い家が何軒か建っていた。これでも今はまだよい方で、以前は小さな道すら少なく、出掛けるときには船を使う必要があったのだという。 

「村のお年寄りの話だと、太平天国は常州や南京を攻め落としたけれど、結局この村には攻め入ることができなかった。でも、日本軍が攻めてきたとき、日本兵は機関銃を据えて、遠くから家に火を放った。家の中から逃げ出してきた人々が、撃ち殺されるのを私は目の当たりにした」。この村は太平天国の大軍の侵攻を許さなかったのだから、日本軍の侵略にもきっと耐えられるはずだと母は心の中で思っていた。だが、わずかな部隊の日本兵は、ほんの数日で池のほとりの家々をめちゃくちゃに破壊してしまった。そして、舟で逃げ出した人々も銃撃を受け、多くが命を落とした。 

私は村のお年寄りに、37年の日本軍による南京攻撃前、この村が攻め荒らされて更地になった記録が残っていないか尋ねたことがあるが、母が語った以上の話を聞くことはできなかった。ただ、村の人たちの話では、今でも家を建てるために少し平らな場所に基礎を打つと、地中からレンガや瓦の破片が出てきて、ここにかつて家があったことが分かるのだという。 

母は字が読めず、村の人々の消息や村の大きさなどを聞かれても答えることができなかった。語れるのは、自分の叔母やいとこの中に、37年の殺りくの中で亡くなった人がいるということだけだった。現在、村には戦争に関する詳しい記録が残っていない。母が語り伝えた歴史も、筆者のような60歳以上の者の心の中に、わずかに記憶としてとどまるだけだ。その他、基礎工事の際に偶然発見された歴史の痕跡から、当時のことを若干推測できるにすぎない。 

戦争を知る人の平和への願い  

78年、筆者は大学受験の際、父母に相談することなく日本文学専攻を志望した。のちに大学から合格通知が届いたとき、父は「しっかり勉強しなさい。私は日本語の言葉をいくつか知っているが、多くはないし、日本のこともよく理解していない。お前の世代は互いに意思疎通をして、絶対に再び戦争にならないようにしないといけない」と語った。 

過去80年間、日本は平和を享受し、高度経済成長を成し遂げた。日本が平和の道を歩み続けてこそ、周辺諸国は安心して日本と協力し、経済を成長させられる。だが、ここ2カ月の間に日本各地を巡り、選挙演説を聞いた限りでは、日本で顕著な排外主義が台頭し始めていると感じた。さらに、日本はここ数年、軍事費を飛躍的に増やしており、筆者は時折、日本は平和の道からそれてしまうのではないだろうかと考えることがある。 

戦後80年をテーマとする日本の報道は、戦争の記憶や記録に関するものは多いが、戦争を起こした根本的原因や加害者責任、被害者が被った苦しみについて分析を加える報道は決して多くない。 

筆者の両親は戦争の悲惨さについてわずかな言葉しか語らなかったが、実のところ、父母の世代が体験した戦争の惨禍は、われわれの理解をはるかに超えるものだ。それでも、このわずかな言葉によって、人々は平和の尊さを深く理解し、平和が永遠に続くよう心から願うのである。 

陳言Chen Yan) 

日本企業(中国)研究院執行院長。1960年生まれ、1982年南京大学卒。中日経済関係についての記事、著書多数。 

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