日本のイチゴ栽培技術携え 中国農村を豊かにするため

2020-07-14 12:57:07

 

ブドウ栽培について仲間と話し合う趙亜夫さん(右) 

今年79歳になる趙亜夫さんは、人生を中国農業の発展に捧げてきた。趙さんは農家に生まれ、幼い頃は農村の貧しい暮らしや飢えを身をもって経験した。そのため、大学で農業を学んでからは、生涯農家の人たちのために尽くすと誓った。

その後、江蘇省鎮江市農業科学研究所(以下、鎮江農科研究所)の所長だった趙さんは1982年、日本への研修の機会を利用し、段ボール丸々13箱分の農業関連書籍とイチゴの苗20株を持ち帰った。

趙さんは帰国後、農業技術者と共に村の各家を訪ね、江蘇省句容県にイチゴやブドウ、モモの外来品種を広め、「白ウサギイチゴ」「春城ブドウ」「大卓モモ」などのフルーツブランドを立ち上げた。こうした取り組みのおかげで、同地の数十万人の農民は貧しさから脱し、豊かな生活を送れるようになった。

 

句容市天王鎮戴荘村で村の人々にイチゴの新品種を紹介する趙さん(左から2人目) 

豊かになる鍵はイチゴ

趙亜夫さんは、日本へ農業を学びに行った当時について、「初めての研修は1982年5月のことで、愛知県の農村へ行きました」と振り返る。当時趙さんを驚かせたのは、日本の農家が田植え機を使っていたことだ。当時の中国は基本的に手作業で田植えをしており、どんなに上手い人でも1日に1ムー(1ムーは約0067)ほどしか植えられなかった。しかし、日本の田植え機は、1台で1日に3040ムーも植えることができた。中国の農村では、1人が1年間に10ムー余りを植えられれば良い方だったが、日本では簡単に300ムーを植えてしまう。「日本の田植えの効率は私たちの20倍以上じゃないか!」と趙さんは衝撃を受けたという。

また、彼にとって他に印象的だったのは、日本の農業総生産高に占める穀物栽培の割合が、わずか10%ちょっとしかなかった点だ。生産高のほとんどがウリ類、果物類、野菜の栽培や畜産など。商品作物と畜産の方が収益が見込めるためだった。

日本での農業研修の1年間、趙さんは働きながら熱心に勉強した。平日は農家を手伝い、育苗箱を洗いながら、心の中ではどうしたら中国の農業が日本に追い付けるだろうかと考え、同時に焦ってもいた。趙さんが身を寄せていた農家では、2ムーの温室栽培と露地栽培でイチゴを育てていた。もともとは2人の従業員を雇ってイチゴを管理していたが、しばらくして趙さんが全てを任されるようになった。そこで、彼は農家に教えてもらいながら、自分でも勉強し、イチゴや野菜、ウリ科の栽培方法について学んでいった。趙さんは「当時、中国の農村にはまだ温室を建てる力がありませんでした。だから私は、イチゴの露地栽培に特に力を入れて勉強しました」と語る。このとき、趙さんはすでに40歳を超えていたが、日本語を勉強するところから始め、役に立つ技術と経験を手に入れることに専念した。

 

句容のイチゴ温室ハウス 

日本から帰国した後、趙さんは鎮江農科研究所の若者と共に、自身が持ち帰った20株のイチゴの繁殖を始めた。半年間で20株の苗は2000株以上になり、試しに1ムーだけ植えてみたところ、結果は上々だった。

83年の初冬、趙さんは鎮江市内の句容県へ赴き、同県の農家の人々に、それまで植えていたアブラナよりもイチゴの方が収益が良く、イチゴに植え替えないか、と呼び掛けた。しかし当時の中国には人工栽培のイチゴが無く、「ヘビイチゴ」と呼ばれる小さな野生のイチゴしかなかったため、農家の人々は趙さんの言うことを信じなかった。彼らは「ヘビイチゴ」が食べられるとは信じず、植えるのを嫌がった。趙さんは「もし結果が良くなかったら、私が責任を持つ。皆でイチゴを育ててみよう」と説得した。

84年春、同地にイチゴが実った。収穫量は1ムー当たり500余りで、農家の人たちは県の中心部や南京へ行き販売してみた。すると、売り上げは非常に良く、1ムー当たりの純収益は1000元を超え、アブラナの5、6倍の収入になった。

 

オフィスで農業の現代化に関する調査研究レポートを執筆中の趙さん 

 

日本の「農協」に学ぶ

イチゴ栽培の成果が良かったため、農家の人々は自分たちでも育て始め、栽培技術を身に付けていった。87年、句容県のイチゴの作付面積は2万ムーに達した。行動力のある人の中には、早朝から上海まで出掛けていき、半日もしないうちに売りさばく人もいたが、ほとんどの人は近場で販売をしていた。

作付面積が増えるのに伴い、イチゴを販売することの難しさが浮き彫りになってきた。売れなかったイチゴを川に捨てる農家も多くいて、趙さんは心を痛めた。また、技術面の支援だけでは不十分で、農家の人たちが市場流通のノウハウを学ぶ必要があると気付いた。

日本での研修当時、趙さんは「農協」の運営方法を注意深く観察していた。日本の「農協」は農家の人々で構成されており、内部の役割分担も、生産担当者や販売担当者など非常に明確で、基本的に品物が売れないという問題は発生しない。中国の農村もこれを参考にできないだろうか?と考えた。

80年代末、ちょうど句容県春城鎮に日本のブドウ栽培技術を広めようとしていた趙さんは、同地で広い農地面積を保有していた方継生さんに先頭に立ってもらうよう働き掛けた。さらに協同組合を設立し、ブドウを栽培しているいくつかの村の農家たち全員を集め、技術とブランド、販売を全て統一させた。すると、南京など大都市から果物の販売業者がうわさを聞きつけてやって来て、ぜひ売らせてほしいと頼んだ上に、高値で買い取ってくれた。方さんが栽培したブドウは1ムー平均の収入が7000~8000元になり、協同組合に参加している農家1人当たりの平均年収は1万5000元に上り、同地に住む一般の人の平均収入を上回った。このことが協同組合のメンバーのやる気をさらに高めた。

 

イチゴ栽培に関する質問に答える趙さん(左から2人目) 

その後、趙さんは、より多くの人々に先進的な技術を学んで、協同組合の経営ノウハウを理解してもらおうと、日本への研修に6回連れて行った。そしてわずか数年間で、栽培協同組合は江蘇省全体に広がっていった。

2001年、趙さんは鎮江農科研究所を定年退職した。その後、貧困村として知られた句容市天王鎮戴荘村で、農家の人たちを指導し協同組合を立ち上げ、有機農産物を栽培することに成功した。しかし、趙さんは報酬を一銭も受け取らなかった。その期間中、南京のある農業会社が趙さんに高い報酬で技術顧問になってほしいと依頼したが、彼は「技術提供はできます。でも、報酬はいりません。会社が句容の人たちが農作物を売るのを手伝ってくれさえすればいいんです」と断った。

それからあっという間に18年が過ぎた。現在、戴荘村ではイチゴをはじめ、ブルーベリー、モモ、イチジク、ブドウ、ヤマモモ、キウイ、カキなどが栽培されている。村全体の収入は毎年120万元以上に上り、固定資産は1000万元を超える。また経済的にも豊かな村になったことで、村を出て行った若者たちの多くが村に戻って、専業農家になった。さらに、趙さんはチャンスを逃さず、農家の人たちを先導し「アグリツーリズム」を推進し、同地の農業をレジャーとしても発展させた。日本の農業専門家は戴荘村を見学し、趙さんの長年にわたる探求と実践に敬意を表した。

趙さんは自分が歩んできた道を振り返り、「この長い年月の間、仕事から無限の喜びを得てきました。農家の人たちが豊かになってくれたことこそが、私の最大の成果です」と話した。また、「自分にはまだやるべきことがたくさんあります。あと2、3年は頑張りたいです」と意気込んだ。

 

イチゴは句容の農家たちが豊かになるための「ゴールデンフルーツ」となった 

趙さんは今年、米の二期作栽培の実験に引き続き取り組んでいる。刈り取った後のイネの切り株からは再生茎(ひこばえ)が成長し、再び稲穂が育つ。こうした栽培は低コストで済み、生産量も増える。イチゴに続いて、これが農家の人たちがさらに豊かになるための道となるだろう。(朱新法=文 新華社=写真)

 

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