私にとっての藤野先生

2018-09-17 17:05:29

齋藤もも

 中国の偉大な文学者・魯迅が日本に留学し医学を学んでいた頃、私の故郷である福井県出身の教師・藤野厳九郎と出会う。魯迅は後に自伝小説『藤野先生』にこう記した。
 
「わが師と仰ぐ人のなかで、かれはもっとも私を感激させ、もっとも私を励ましてくれたひとりだ」と。

 私にとっての「藤野先生」は、間違いなく上海で出会ったあの人だろう。

高校に入学して間もない頃、選択科目希望調査用紙の中国語と書かれた欄に私は何気なく丸を付けた。今思えば、ここで私の運命は大きく動いたのだ。

あの頃の私は、それまで11年間続けてきたフィギュアスケートを辞め、夢中になれるものをなくし、ただ毎日を無気力に過ごしていた。中国語の授業では、ただ促されるままに機械的な発音を繰り返し、先生の文法の説明をぼんやりと上の空で聞き流す毎日だった。赤点でなければいいという程度の意欲しかなかったので、テスト勉強などもまともにしたことがなかった。

そんなある日の中国語の授業後、先生から「中国語学研修に参加してみない?」と声をかけられた。ただ「海外に行きたい」「刺激がほしい」という理由で、即決した私。しかし、この時もすでに、私は運命の波に背中を押されていたのだ。

上海での語学研修は未知との遭遇ばかり、目にするものすべてが新鮮で刺激的だった。街へ飛び出せば、私の想像をはるかに超える人、人、人の大群。車、車、車の洪水。あちらこちらで大声を張り上げているエネルギッシュな中国人のパワー。こんなにも毎日がワクワク楽しくて、高揚感を感じることはフィギュアスケートをしていた時にも感じられなかった。

そこで私は1人の中国人教師・田甜先生に出会った。

一緒に行った研修メンバーの中で、私の中国語力が一番低かった上、英語もさほど話せるわけではない。意思の疎通ができずに話の輪に入れず、いつも無口だった私が不憫に見えたのだろうか。彼女はいつも私のことを気にかけてくれ、根気よく笑顔で話しかけ続けてくれた。私は田甜先生から、他の誰よりも自分が特別に思われていることを実感していた。

講義を筆記した魯迅のノートに、藤野先生は毎回書き切れていないところの補足や日本語の文法の間違いを指摘する添削を行った。その添削は、藤野先生が魯迅の授業を担当している間、ずっと続けられた。藤野先生がなんとしても魯迅に大成してほしいという思いで心血を注いで指導し続けたように、田甜先生は研修中、出来の悪い私をずっと励まし続けてくれたのだ。

研修最終日、返却されたノートを目にした途端、私は声を上げて泣いた。そこには頑張って書いてくれた日本語で田甜先生からのメッセージがこう書かれていたのだ。
「あなたを教えることができて、私は幸せでした」

帰国後、私は意欲的に中国語を勉強し始め、スピーチコンテストや検定試験に次々と挑戦するようになった。授業にも一生懸命取り組み、テストではいつもクラストップの点数をとるようになった。田甜先生は私の中の「勇気」を呼び覚ましてくれたのだ。

高校卒業後は大学に進学し、より本格的に中国語を学ぶ予定でいる。そして、こんなにもすばらしい先生に巡り合わせてくれた中国に、いつか恩返しをしたいと思っている。

人民中国インターネット版

 

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