中国が私にくれたエネルギー

2018-09-18 15:45:12

矢野紗耶伽

 「ねえ!そのスーツケース、どこで買ったの?」

   初めて上海の地下鉄に乗った日の朝。私の背後にいた女性が突然話しかけてきた。

    「その大きさは、何サイズ?」

    まだ日本語モードから切り替えられていない脳に、不意に飛び込んできたネイティブの中国語。そもそも初対面の他人が、私に持ち物の詳細を尋ねている──その口ぶりはまるで久しぶりに再会した従姉妹のお姉さんのようだ。強烈なダブルパンチを受け、私は思考停止した。1年前の私は、こんな状況にさえ、たじろいでいた。一瞬の間が空いたあと、私はようやく思い出せた中国語「すみません」をぼそっと彼女に告げ、逃げるようにその場を去った。直後、自分に深く失望した。あかの他人だって同じ人間、喋る生きものだ。私は、こんなにコミュニケーション能力を欠いた機転の利かない人間だったのか。まるでロボットではないか。情けなさと悔しさで胸がいっぱいだった。しかし、それと同時に希望を感じたのも確かだった。あの時のできごとで、私は中国生活で学ぶことが山ほどあると確信したし、自分の成長への期待に胸が高鳴った。

 それから、私は中国・上海で現地のエネルギーを日々吸収した。現地は自分の想像以上にIT化が発展しており、その生活様式はまるでSF映画かのように思えた。どんなサービスも存在し、スマートフォンさえあればかゆいところに手が届く。しかし、映画とは異なったのは、この一見無機質にも思えるほど快適なシステムが存在する中でも、人々がエネルギーを失うことなく、人間らしくいきいきと生活を送っていたことだ。私にとっては、それが何より印象的だった。一体あのパワーはどこから湧いているのか、興味津々だった。

 中国では、数え切れないほど沢山の人に関わった。大学で出会う人はもちろん、お店の店員、タクシーの運転手、デリバリーや宅配便の配達員、旅先で知り合った人など。こう羅列すると、日本での日常生活で出会う人と何ら変わりはないように思われる。しかし、中国で出会った彼らは、常に私に新しい学びをくれた。なぜなら、彼らはいつも本音で私とぶつかってきたからだ。私は彼らとよく対話した。彼らは、立場が先生であろうが店員であろうが運転手であろうが、思ったことや感じたことは、何でも言葉にする。私が生徒だから客だからといって、躊躇することはない。その発言は時によって私を喜ばせることも怒らせることもあったけれど、本音と建前がはっきり分かれている日本で育ってきた私は、その飾らないやりとりにぬくもりを感じた。また、それによって彼らがどんな肩書を持っていても、皆それぞれ一人のなのだということを強く認識させられた。

 中国での日々の中で、日本では考えられないようなトラブルがよく発生した。度重なる想定外の事態に心が擦り切れそうになることもあったが、それでも慣れて余裕が出てくると状況を楽しめるようになった。融通の利く場面が多かったのも、ものごとに可能性を感じて面白かったし、言語を学ぶモチベーションにもなった。中国語ができればできるほど、自分がより有利な状況になることが多かったからだ。問題を乗り越える度にを実感したし、精神が鍛えられ、タフさが身に付いた。以前の肝の小さい自分とは異なり、何が起きてもどっしり構えられるようになった。私は徐々に、人間らしさとは何かを理解していった。

そうやって、中国からエネルギーのおすそ分けをしてもらいながら、目まぐるしい1年間を終えた。もとは語学の習得と中国社会への理解を深めることが留学の目的だったのが、結果として自己形成も実現するとは、自分でも驚きだ。今となっては、私にとって中国はもはや外国とは思えない場所だ。感じたぬくもりは、ずっと忘れないだろう。濃密な留学生活を終えた今、胸を張って自分の成長を証明できる。ありがとう、中国。

人民中国インターネット版

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