中国が教えてくれたこと

2018-09-21 14:44:32

伊藤涼

 「中国」或いは「中国人」と聞いて、日本人や日本のメディアなどが度々挙げられるイメージといえばマナーの悪さや衛生面の悪さ、領土問題や反日デモといったマイナスなイメージが多いだろう。幼いながらにもこの事実に疑問を感じたのは中学生の頃であった。幼稚園の頃から中華学校という環境に身を置き、沢山の中国人や華僑、華人と接してきた私にとって、それらのイメージは酷く相反するものであったからだ。彼らは日本人の私に対して他の中国人生徒と同様に接してくれるし、校外活動の際には、口酸っぱく私たちにマナーを守るよう指導してくれていた。そして間も無くして、実際に中国へ訪れて我々日本人が抱くマイナスなイメージは果たして事実なのか、この目で、この肌で確かめたいと強く思うようになった。

 そんな私の思いが通じたのか、中国に二度訪れる機会を得ることができた。そして訪中の感想はただ一つであった。「日本で見て、聞いていたのとはまるで違う」ということだ。それはもちろん、マイナスな意味ではなくプラスの意味で、である。道が分からないと拙い中国語で私が訴えれば笑顔で教えてくれたし、宿泊したホテルの備品に不備があるとフロントに伝えれば、嫌な顔一つすることなく迅速に対応してくれた。それだけではない。買い物中の私が日本からやってきたと知れば、値引きをしてくれたし、店の奥から新品の商品をわざわざ持ってきてくれた。中でも、最も印象的だったのは侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館(日本では南京大虐殺紀念館という名前の方が馴染み深いだろうか)に訪れた際のことであった。不本意ながらも、やはりこの地を訪れることにそれなりの恐怖と緊張があった。皮肉にも、私の脳内によぎるのはこれまで何回にも渡って見てきた反日デモの映像や、反日的な発言をしている中国人のインタビューの映像だった。それまでの旅の中で、全ての中国人が反日的でないということなど百も承知であった。むしろ、親日的な人も多くいるということも知っていた。しかし、日中関係で度々取り上げられるその地にいざ足を踏み入れるとなると、やはり勇気が必要であった。館内では極めて反日的な展示や記述が多いことを聞いていたため、そのような感情を抱くことも止むを得ないのであったのかも知れない。けれども、間も無くしてある出来事によってそのような感情は全て払拭されることとなった。

 それは背後から日本に対する批判的な意見を聞きながら、館内を見て回っているときであった。誰かが突然、私の肩を叩いたのであった。その日の館内は、世界記憶遺産に登録されたばかりで酷く混雑していて、すれ違いざまにぶつかってしまうこともあった。気のせいだとも思ったが、どうやら違うようであった。背筋が凍ったような気がした。私の肩を叩く手はとまらないため恐る恐る振りむくと、どこかしかめっ面の中国人の男性二人が私に向かって、日本人かと尋ねてたので、私たちは首を縦に振った。そしてそのまま彼らはこう続けた。よく日本人で、そして若いのにこのような場所に来て、歴史を知ろうとすることは実に素晴らしいことだ、と。その時私は、驚いたと同時に、彼らに話しかけられる前の自分が非常に愚かだったことに気づいたのである。

 彼らに話しかける瞬間まで、私はずっとこの紀念館に訪れる中国人は皆反日的であると思い込んでいた。だから、振りむいて見あげた彼らの表情がしかめっ面に見えたのだ。紀念館に入る際の一連の私の思考回路も、全て自分自身の極めて偏向的な思想がさせたことに違いない。

 訪中を通して中国は、私のこれまで十七年の人生に大きな影響を与えてくれた。それはただ中国が日本で報道されているような悪い国ではない、というだけではない。自分自身で真偽を確かめることの大切さと、限られた情報だけで偏った思想を形成することの愚かさを教えてくれたのである。

 当然、世の中に流布している情報の中には正しいものも存在する。しかし、無数の情報が錯綜し、無限に情報を得ることができる時代に生きる私たちこそ、広い視野をもち、世界と向き合うことが大切なのではないだろうか。

人民中国インターネット版

 

 

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