体内にあった歴史

2018-09-21 15:25:14

市岡佳奈

 ケガをした時、体内から流れててくる血を私はじーと見つめた。この血の中から、私は本来もっている血の色と異なる血の色を探していた。しかし残念ながら、血の中から異なる色の血は見つける事はできなかった。

 なぜ私は、自分の血の中に異なる色の血があると考えたのか。私は日本で生まれたが、五歳から十歳までは中国の長春の近くにある小さな町で幼少期を過ごした。とても小さな町だったので、みんなはすぐに私の存在を知る事になり、学校に行っても、「この子が日本人だ!」と、よく耳に聞くこともあったし、視線を感じる事もあった。祖父や祖母からも、「この付近の人たちはみんなあなたの事を日本人だと知っているから、普段から気をつけて行動しなさい。」と言われていた。中国にいながらも、家族やみんなから日本人として見られていた私は、自分のことを日本人だと思っていた。しかし、十歳の時日本に戻り、その一週間後に小学校に入学した私は、中国にいる時と真逆な事が起きた。今まで日本人として見らていた私は、中国人として見られるようになった。しかし、私はこの事を中学生一年生までは特に深く考える事もなく過ごした。

中学生になった私は、周囲から羨ましがられる事があった。それは、中国語を喋れて、二つの文化を味わえる事だった。しかし、この時から私は自分の立場を苦痛だと思っていた。一つの文化や言語を持ち、他人にはっきりと自分はこの国の人だ!と言える友人が羨ましかった。しかし私は、相手の見方によって自分が何人であるのかが変わる事が多々あった。この時から、自分には四分の一日本の血液と四分の三の中国の血液が流れている事を意識するようになり、その違いをはっきりわかるようにしたかった私は、血の中から違いを求めていたのだ。その後なぜ私は中国とのクォーターになったのかを、祖母から詳しく聞く事が出来た。

夏休み祖母の家で過ごしていた時、私は祖母の生い立ちについて聞いた。「祖母はなぜ純粋の日本人だったのに、中国人である祖父と結婚したの?」と、祖母は十三歳の頃、開拓団として、家族と一緒に中国の「満州国」に行ったが、その後日本が敗戦し祖母がいた開拓団は日本に戻る決意をし、汽車に向かって歩いた。しかし、途中でソ連軍に遭遇して祖母の家族はみんな殺害され、祖母も銃が腕に当たったが、中国人に拾われ、養子として中国人の家で労働させられ、過ごす事になった。その後、その家族である息子「祖父」と結婚し、家庭を築いた。多くの残留孤児は中国で家庭を築いた後、国籍を中国に変える人も多かったが、私の祖母は変える事はなかった。祖母の話によると、国籍を中国に変えても、日本人である事は変わらないし、中国にも良い人と悪い人がいて、「日本鬼子」と呼ばれなくなるわけではないと教えてくれた。

こうして私は日本の国籍でありながらも、家では母が毎日作る中華料理を美味しく食べる自分がいた。中国と日本の間ではっきりした身分が欲しかった私は、祖母の話を聞いてから、人は簡単に国籍で何人と決まるわけではないし、こうした歴史的背景から、自分は二つの文化を持ち、思想を持てることができた。今では、中国の血も日本の血も強く絡み合い、私の体内の中を駆け回っている。

人民中国インターネット版

 

関連文章